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伊野静華との出逢いは、僕が軽音楽部を辞めたことがきっかけだった。
幼い頃から、音大で声楽を専攻していた母に影響され、僕の日常には歌が溢れていた。何一つ疑問を抱くことなく歌うことが好きだった少年時代。リビングやキッチン。学校からの帰路。お風呂場。一人の時間を見つける度に、僕はところ構わず歌い続けていた。
夕刻、晩ご飯の支度をする母の背後でSMAPの【世界に一つだけの花】を歌う僕。メロディラインに母はハモリを絡ませ、二人の声が歌詞に乗ってキッチンを駆ける。母の歌声が乗ると、自分の歌声に膨らみが生まれたようで心地良かった。あの高揚感は未だ鮮明なまま記憶に残っている。以来、僕は必死に独学でボイストレーニングを続けた。もっと上手く歌いたい。ただ、母のように綺麗な歌声が欲しい。その一心で、時には母から教えを請い、僕は次第に歌唱力の基礎基本を伸ばしていった。
中学では、合唱部へ入部した。部員は全体で六人しかいない弱小部活。男子は僕だけだった。
六人ではコンクールへの出場も厳しかった。顧問と相談し、僕らは流行のテレビ番組に影響を受け、J-POP曲のアカペラ練習を始めることにした。僕がリードボーカルを務め、他の女子生徒にコーラスやボイスパーカッションを担当してもらう。逆紅一点というのが、自分で言うのは気が引けるが様になっていた。
放課後の第二音楽室に響き渡る僕らの歌声。夢中になって歌う僕は、夕刻、母と一緒に歌った時よりも何倍だって気持ちの良い気がしていた。
僕ら合唱部改めアカペラ部の最高傑作はサザンオールスターズの【いとしのエリー】だった。アカペラの完成度の高さに驚いた顧問は、僕らに舞台を用意してくれた。卒業式前日に行われる学年全体のお別れ会。その中の催しの一つに、僕らをあてがってくれた。アカペラ部の卒業前公演は、僕が一年生の時に発足した。それは毎年の恒例行事となった。今でもまだ健在だろうか。郷愁に胸が騒がしくなる。
第二音楽室で歌っていた時とは違って、卒業前公演では多くの視線が僕らに集まっている。マイクは全ての音を拾う。僕の緊張すら、客席の生徒たちに届いている気がした。それでも、観衆が多ければ多いほど、僕の心は躍動した。この声を聴け。エゴに似た承認欲求が、仲間の助けを得て純正なまま発散できているようで楽しかった。
高校へ進学後、母は僕に軽音楽部への入部を勧めた。僕が入学した彩明学園相模原高等学校に、合唱系の文化部は存在していない。歌うことが好きで、他にやりたいことがないのであれば、軽音楽部でボーカリストをやればいいと母に勧められた。「モテるよ、バンドマン」若くて気さくな母は、冗談交じりでそう言った。
母の言うとおり、特別やりたいことがあるわけでもない。運動系には疎いし、魅力的な文化部があるわけでもない。だからといって、帰宅部は少し退屈だ。母に従順なようで不服な部分もあったが、僕は軽音楽部への入部を決意した。
ただ、軽音楽部でボーカリストのみを務めることは、僕には少し恥ずかしかった。楽器一つ触れる気も無く、「僕の歌声を買え」なんて面をしたままでいられるほど、僕は僕の実力を評価することが出来ない。
母にそれを相談すると、「入学祝いサプライズ」と言って、エレキギターを一本買ってもらった。新品の黒いテレキャスター。瞳の中で、その仰々しくも美しい光沢がきらきらと輝いていた。「ギターボーカルはもっとモテる」母は確信を持って言った。
軽音楽部に入部した僕を待ち受けていたのは、賞賛の数々。新米一年生として先輩に威張られることはない。皆、僕の初心者ギター演奏には目もくれず、この培われた歌声だけに興味を示した。唯一持ち得た武器、歌唱力。それが、この部活動内では何よりも希少価値の高いものだと知る。入部早々先輩からバンドを組もうと提案された。期待の新星。僕を囃し立てる時に、先輩はそんな異名を持ち出した。
結局僕は、当時軽音楽部二年で副部長を務めていたギターのヤマさん、僕と同じく一年で、幼少期からドラムを叩いていたという腕利きの誠、こちらも一つ先輩で、部内では右に出る者はいないと評判のベーシスト京香さんとバンドを組むことになった。実力派を固めて、ウチのエース格バンドにしたい。そんな顧問の願いが透けたようなメンバーであることに違いは無かった。
僕のリズムギターを除けば、僕らのバンドはすぐにオリジナル楽曲を制作する演奏技術を持ち合わせていた。バンドを組んですぐ、メンバーはヤマさんを中心に新譜作製を始めた。僕と誠のハコライブデビュー前には、一曲、どうしても完成させるぞとヤマさんが意気込む。僕はその熱量に気圧され、毎晩、ギター練習にのめり込んだ。弦だけの、淋しい音が部屋に響く。早くアンプに繋ぎたい。もっと大勢に見て貰いたい。眠りかけていたはずのエゴが、指先で弦を弾く度に溢れだしてくるのがわかった。
楽曲作成中、僕らは大きな壁にぶつかった。京香さんが「ヤマの曲は、歌詞と音楽が合ってないよ。短絡的な歌詞過ぎて、演奏の深みに追いついてない。もうちょい捻れない?」と言い出した。
言われてみればそうだ。ヤマさんの作る曲は、激しいラウドロックばかりをやりたがる同年代の軽音部員からは一目置かれている。エモーショナルなサウンドと、エフェクター収集家の一面を持つヤマさんが奏でるギターから溢れ出たノイジーさ。その二面を兼ね備えた特徴が強みだ。楽曲がオルタナティブロックに傾倒しているからこそ、歌詞には独特の空気が必要だった。中途半端に紛れた英語詞や、単調なワードをひたすら反復する流行には背を向ける。
指摘を受けたヤマさんは「誰か歌詞書いてくれよ」と周囲を見渡す。しかし、指摘だけはするものの、誰もヤマさんに視線を合わせようとはしない。リズム隊なので、そういう顔で拒絶を示す。次第に矛先が僕へ向き始めた。フロントマンに歌詞は任せる。そんな風潮に煽られ、行きずりに歌詞担当を任命されてしまった。
歌詞など勿論書いた試しはない。僕はヤマさんから貰ったサンプル音源に合わせ、何となくでひとまず書き上げてみた。歌詞にしては少し暗いか。言葉も聴いていてわかりにくいだろうか。不安ばかりが募る中、メンバーに歌詞を提出する。
メンバーは、絶賛した。僕に歌詞を押しつけた申し訳無さからではない。彼らの演奏は、僕の歌詞を見て張りを増した。「良い意味で、バンド曲っぽくない。詞ってより、詩だ」と、皆は口を揃えて言った。
僕にもその自覚はあった。彼らのおかげで、自惚れにならずに済むと安心した。早く届けたい。僕の声で、僕の歌詞を。強い思いが練習量を増やした。
紆余曲折を経て僕らの第一曲目が完成した。タイトルは【切望汽笛】。
演奏隊の三人は平常通り申し分ない技術を発揮し、僕の歌声も三人からは高評価を受けていた。が、僕はボーカリストではなく、ギターボーカルに執着する面が拭えずにいた。それは一概に、恋人、泉菜々子の存在が大きかった。
菜々子は音楽を聴くのが好きだった。菜々子のスマートフォンにインストールされた音楽ストリーミングアプリの中は、様々なジャンルの音楽が溢れかえっている。僕より何倍も音楽情報に精通しており、有名バンドがサブスクリプションを解禁すると、「アオくん! ○○のサブスク! 熱いね!」と即時連絡をくれるほどだ。
だからこそ、僕はいつか、そんな音楽マニアの菜々子へオリジナル楽曲を作製して、弾き語りをしたいと考えていた。僕は自分が持ち得るもので満足することは嫌いだ。自惚れを恥として識別する心を持つ僕としては、当たり前の感覚。だからこそ、ギターに熱中する。ギターを触ることは楽しかったし、それに、やはりバンドを組むのであれば、フロントマンとしてギターをかき鳴らしながら歌うのが一番気持ち良くなれる気がしていた。
演奏技術が追いつかない僕を見かねて、サポートで別の部員をリズムギター枠として参加させる意見が上がった。皆が皆、本気で音楽に取り組む故の選択肢だと分かっていた。それでも、悔しさは晴れない。ギターボーカルに固執する僕は、腹を割って赤裸々にバンドメンバーへその旨を語った。初め、少々渋い顔をした者もいたが、僕にこれからも歌詞を書かせる条件付きで、メンバーは満場一致でリズムギターを任せてくれた。
放課後の視聴覚室。軽音楽部内の定期ライブで【切望汽笛】を初披露した際、クオリティの高さに、他部員から拍手喝采が上がった。三年生の先輩からも、知り合いの出るハコライブでオープニングアクトとして歌って欲しいレベルと称された。その結果、僕と誠は一年生にして、部活動が主催しない、野良のハコライブに参加させてもらえることになった。
それからは、何度か対バンに声をかけてもらえるようになり、僕は人生で五回ほど、ステージ上の絶頂を味わった。五度目の野良ライブでは、僕らSHAYOLはトリに選出された。バンドの顔ともいえる【切望汽笛】。ライブ会場では、簡単なCDを一枚三百円で発売した。売れ行きは好調で、ユーチューブに配信した音源動画は既に四万再生を越えていた。コメント欄には〔これは売れる。古参ぶっておこう〕なんてことも書かれていた。
SHAYOLが日を追うごとに進化を遂げる。それを肌で感じる日々は有意義そのものだった。このバンド名については、京香さんが当時呼んでいた太宰治『斜陽』から取り入れたものだ。他にも候補はいくつかあったが、「文学的な部分もあるバンドってことで、シャヨウ、いいんじゃねえか」というヤマさんの強い一言でSHAYOLに決定した。
波に乗っていたのは確かだった。顧問からも「前衛的な楽曲と文学的な歌詞が見事にマッチしている」と賛美を受け続けた。僕らのバンドは彩明学園代表として、来年の高校生バンドコンテストに選出すると力添えも貰えた。そういう、わかりやすい絶頂の只中で、事件は起きた。菜々子が交通事故に遭って、聴力の全てを失ってしまった。
僕の原動力にはいつも、中学二年の頃から交際している菜々子の笑顔があった。菜々子が中途失聴者になり、僕の歌声が聴けなくなった。青春が終わる理由は、もうそれで十分だった。SHAYOLに数多の期待が込められていても、僕がバンドを続けたいと思える手綱にはならなかった。
僕がバンドも軽音楽部を辞めたいと言い出した時の、メンバーの表情を未だによく覚えている。事情を聞いてしまったからに、皆、本音を噛み殺したような複雑な面持ちをしていた。
ただ、僕と同期だった誠だけが、僕を「勝手な奴」と言ってくれた。僕はその言葉に、不思議と救われた気がした。「勝手な奴」が「勝手な理由」で「勝手に辞める」。何一つ不自然ではない。今思えば、物事の優先順位がメンバーと上手く噛み合わない時点で、僕は「勝手」だったのかもしれない。
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