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1-16.現実:シャツ
今日もクソみたいな夢を見た。
柳沼青人はクローゼットを覗く。
なんとなく嫌な予感はしていた。
今日見た夢に出てきた六枚のシャツ。すべて、青人の持ち物だった。
開けっ放しのクローゼットを見やると、まず派手な赤と青の色彩が目に飛び込んできた。
つまり、だ。
青人の服は夢の通り、赤と青の血、いや、彼らの言う汁によって染め上げられてしまっていたのだ。
青人の大きなため息が部屋に響く。
服から滴り落ちる鮮やかな汁。それは服の下に置いてあるチェスト、それから、買い置きのティッシュ、洗剤、その他もろもろまでに被害を及ぼしている。
とりあえず、汁に塗れたシャツどもを風呂兼洗面所に移動させる。浴槽の中にぶち込んでおいた。
雑巾で滴り落ちた汁を拭く。なかなか取れない。粘っている。気持ち悪い。
急降下する機嫌をなだめるために、スマホを手に取る。音楽でも聴こう。
画面を立ち上げる。見えた時間にぎょっとする。講義開始十分前だ。
走っていけば間に合うだろうが。
青人は顔を上げる。
このままこの汁を放っておくわけにはいかない。
染みついたら困る。賃貸だから。
同じ講義を取っている倉吉にSNSでメッセージを送る。配布物の確保を頼んだ。
倉吉から即座に返信。
『熱でも出たか?』
説明するのが面倒だった。
『そんなところ』
青人は返事をした。
風呂場に持ち込んだシャツは全滅だった。
浴槽に入れたシャツどもにシャワーで水をかける。お湯をかける。洗剤で洗う。
無意味だった。
無難な白や淡い青など、薄い色の多い青人のシャツ。
ド派手な赤と青に染められてしまえばひとたまりもない。
青人はシャワーヘッドを握りながら呆然とその場にしゃがみ込んだ。
六月も末。
この六枚のシャツで着回しをしていた。必要最低限のものしか下宿に持ってきていないから着る服がない。
それこそ、春に肌寒いからと持ってきたパーカーしかない。しかもパーカーの下に着る半袖Tシャツは派手な赤。裸パーカーしか手がない。
深々とため息をつく。
一枚二枚と服を絞る。干して乾かしてから捨てよう。
そこで気づく。五枚しかない。一番お気に入りの白いノーアイロンのワイシャツがないじゃないか。
希望が生まれる。どこかに残っているかもしれない。
青人は早まる気持ちを抑え、しぼった服をハンガーにかけ、ベランダに干す。そして、もう一度クローゼットを覗く。
ない。
洗濯機を覗く。ない。当然だ。昨日洗濯したばかりだ。
なら、どこに。
はっと息を呑んだ。
夢の中で赤があのシャツを着ていた。そして、そのまま持ち去った。
すべてのやる気を失った。
青人は一通りのことを済ませると、ベッドに入った。
考えるのも面倒だ。要するにふて寝だ。
ただし目は閉じない。眠ればあの夢に入ってしまうからだ。
青人はスマホをいじり始めた。
ゲームをしたり、動画を見たり。
時間はあっという間に食いつぶされる。
インターフォンが鳴ったときには時刻は四時半を回っていた。
来客に扉を開けると、倉吉だった。
その手にはビニール袋。
「体調悪いんだろ? これ、差し入れ」
どこまでいい奴なんだ。青人は額を押さえ、言う。
「ごめん。体調が悪いっていうか……その、いろいろあって」
「いろいろ?」
「いろいろ」
「そっかー」
それでいいのか。
だが、追及されないのは助かる。ほっと息をついた青人。そして、声を潜める倉吉。
「あとさ、青人。お前に聞きたいことがあるんだ」
やっぱり追及されるのか。しかしながら、話は意外な方向に。
「お前、光谷先輩と付き合ってんのか?」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。倉吉が背負ったリュックの中から可愛らしい袋を取り出した。
「これ、光谷先輩から」
「なにこれ」
「『これ新しいシャツ。汚しちゃってごめんね』って」
裏声の倉吉にこらえきれず吹き出したいところだが、吹き出したのは冷や汗だった。
「そこまで深い関係なの?」
「違う。断じて違う」
青人は必死に首を横に振る。
「めちゃくちゃ顔色悪くなってるぞ」
「顔色が悪くなる状況だからな」
「ま、まさかお前」
倉吉がわなわなと震えだす。
「光谷先輩に無理矢理――」
「違う。それも違う」
「よかったー」
倉吉がほっと息をつく。だが、その言葉に疑問。
「光谷先輩ってそんな人なのか?」
「割と破天荒」
「マジか」
「マジだ」
二人でごくりと息を呑んだ。
倉吉がぽんっと青人の肩に手を置く。
「困ったことがあれば、俺に言えよ」
「助かるわ」
「任せとけ。あと、これ食え」
結局倉吉は手に持ったビニール袋を青人に渡していった。
中には講義のレジュメとおにぎり。
今度何かおごろう。
そして、手に持った袋。中を覗くと、ノーアイロンのシャツが入っていた。
そこには小さなメッセージカードも。
『六月二十二日の昼休み。購買前で待ってるよ』
短い文章。そして、記された名前。
『光谷赤音』
青人は深く深く、息を吐いた。
バカみたいな話だ。夢の呼び名と現実の名前がリンクするなんて。
だが、憶測は確信に変わった。
光谷。彼女が赤なのだと。
中に入っていたシャツを着て、青人は服を買いに出かける。
【16.現実:シャツ 終】
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