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何でも気がついた事があったら、遠慮せずに言って下さいね。その方が私も成長できるから。
娘のバレエ教室の若い先生がレッスン初日に言っていた事だった。
その先生は、ロシアの有名な劇団で踊っていたらしい。しかし怪我が原因で帰国、今のバレエ教室を開いた。
バレリーナとしては実績があるかもしれないが、指導者としてはまだまだ足りない。
娘が一番仲良くなった里子ちゃんのお母さんと迎えを待っている間にこんな話をした。
「あの先生、まだ若いから子供を預けるには不安よね」
だから、私はまだ若い彼女に色々教えてあげた。
集金袋がキャラクターのものを使っていたので、お金を集めるものだからもっとちゃんとした物をと言って変えさせた。
写真もこんな時代だから、迂闊にとるのをやめてくれ。まして自分のスマホで子供達を撮影するのはありえない。
持ち物に必要な物が書いていないものがあったから、電話して教えてあげた。
他の教室よりも子供達の踊りが劣っている気がしたから、指導力に不安があるとアンケートに書いた。
他にも数え切れない程、私は色々と教えあげた。
だって、その方が彼女のためだから。
そんなある日の事、里子ちゃんのお母さんと他の五人ぐらいのお母さん方に話しかけられた。
「ちょっと、先生に色々言いすぎじやない?」
「私は彼女のため、子供たちのために、言ってるんです」
すると里子ちゃんのお母さんは大きなため息をついた。
「あなたのせいで、おたよりの写真もなくなったし、レッスン中の撮影もできなくなったし、あなたのせいでレッスン終わりの飴もなくなったし、あなたのせいで自由にのびのび子供達がバレエできない!
色んな事が窮屈なのよ!
今度また何か言い出すんだったら、他の教室に移って頂戴!」
一方的にまくしたてられて、あっという間にその人達は帰ってしまった。
突然の展開に何も言えなかった。
でも、娘の友達のお母さんとはこれ以上揉めたくない。
慌てて仲良しだと信じていたママ達に連絡をとった。
LINEのグループには誰もいなくなっていた。
集団で私を外したのだ。
保護者同士のトラブルは先生に相談して何とかしてもらいたい。
教室の事務所を訪ねると先生は私を見た途端すごく嫌そうな顔を一瞬だけして、営業スマイルを見せた。
彼女は私の話を聞いてくれたが、笑顔でこう言った。
保護者の方どうしの事なので私からは何もできません。
退会されるなら、申し出て下さいね。
あれだけ彼女に教えてあげたのに、それなのに、この仕打ち。
私が教えてきたことは一体何だったんだろう。
間違えた事はしていないはず。
正しい事を伝えるのはいけない事だったんだろうか?
娘を引き連れて部屋に帰った。いつも通りご飯を作ってテレビを見ていると、テレビではクイズ番組をやっていた。
「あははっ、このバカ女、犬の英語もわからないんだ。犬の英語はキャットだって。すっごいバカ」
そう笑うと娘は「本当はわかっててボケてるんだよ。お母さんこそ何でそれがわからないの?」と私を冷たい目で見た。
「おまけにバレエ教室のお母さん方とトラブル起こしてるでしょ?恥ずかしいから本当にやめてよ!」
娘はすぐに自分の部屋に行ってしまった。まだ何にもわからない三年生だと思っていたのに、もう何もかもわかっている三年生だった。
いくら待てども旦那はまだ帰って来ない。最近忙しいらしい。
誰かに話を聞いて欲しい
そう思い電話したのは、同じ社宅に住んでいる仲良しの奥さんだった。
その奥さんは私の声を聞くなりトーンが下がった。けれど気にせず今日の出来事を話し続けた。
ようやく心が晴れてきた。
「坂下さんの奥さん、また今度お料理教えてあげるからじゃあね」
電話を切ると、清々しさを覚えた。やっぱり私のしていることは間違っていない。坂下さんの奥さんが肯定してくれた。
日付が変わる頃、夫がようやく帰って来た。寝ずに待っていた私を見てなぜか渋い顔をしている。
「おい、坂下君の奥さんにまた長電話したらしいな」
てっきり坂下さんから事情を聞き、私を慰めてくれるのだと思った。けれど夫の口から出てきた言葉は耳を疑うものだった。
「もう坂下君の奥さんに関わるの止めろよ、坂下君から直訴されたよ。彼らはお前が原因で社宅から引っ越すらしいぞ」
「何で?坂下さんは私とお話しできて嬉しいって、料理も教えてほしいっていつも言ってるのに」
「まさか、その謙遜本気で信じてんじゃねぇだろうな?」
私が大粒の涙をこぼしても夫は止まらない。
「だって、だって」
「いいか?大人には社会をうまく回していく義務がある。日本ではとにかく相手を立てて自分を下げるんだ。それが仲良くない人間と接する時のルールだろ?」
夫が怒っていることの意味がわからない。黙ったままの私を夫は一瞥した。
「わかんねぇよな?馬鹿だもんな。だから相手の言葉を信用するな!大人ってのはみんな心の中では何考えてるかわかんねぇんだよ!謙遜には謙遜で返せ」
それでも夫が何を言っているのかわからない。
「だから、常に自分は世界で一番ダメな人間で、相手はすごい人と思ってろ。滅茶苦茶いい人のふりをしろ!何でこの歳までそれがわかってねぇんだよ!」
そういうことだったのだ。
誰もそんなこと教えてくれなかった。
これが私が人を信じなくなり、世渡りがうまくなり、大人になった瞬間だった。
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