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「おらが村の桜饅頭だ。食べてけろ」
田舎の親父が誰かを訪ねて行く時に必ず持って行く代物だった。
それは何の変哲もない、ピンクの薄い皮にこし餡が入った饅頭だ。
その桜饅頭が今日親父の作った米と共に届いた。
子供の頃、親父が晩酌をする度に言っていた。
「桜饅頭さえ持ってけは、東京の女の子達がたいそう喜ぶ。それで大きな会社の受付の子に渡せば、会いたい人に合わせてくれるんにゃ」
だから村を出るまでそれを本気で信じていた。
桜饅頭は日本一美味しい饅頭で日本全国の人達がそれを欲していると。
けれど、上京しコンビニの和菓子コーナーで桜饅頭に限りなく近い物を見た時のやるせなさを未だに覚えている。
いつものやけに渋い桜のデザインされた箱を開けると、桜の匂いが部屋に広がる。そして紛れもない桜饅頭が六つそこに鎮座していた。
田舎は東京から三時間程特急に乗る。そして一時間程、普通電車にのるとようやく辿り着ける。
無人駅の改札を抜けると、そこには一面緑が広がる。
山やら田んぼやら畑やら、田舎の象徴が詰め込まれているのだ。
そういえば、何年も帰ってない。
母さんの作るやたら塩っ辛い焼きそばが懐かしい。
けれど仕事が忙しくて帰りたくても帰れない。
大きなため息と共に桜饅頭を箱にしまった。
忙しい朝、目覚まし時計の音で叩き起こされる。
シャワーを浴び、スーツを着込むとすぐに玄関を出る。
会社に着けばすぐに営業に飛び出していく。
今勤めている会社は能力主義って素晴らしいシステムだ、能力のない奴に無駄な金は払わず、仕事をしている奴に金を払ってくれる。
けれども、最近自分の成績は思わしくない。
だからこそ、寝る時間を削ってでも人の数倍努力しなくてはいけない。
気がつけば、もう通勤電車から見える桜は散っていた。
正直に言うと今が何月何日かも興味がわかない。
暑くなってきた気がするから、もうすぐ夏が来るのだろう。
いつも通り、ビルのオフィスに我が社の製品を置いてもらうべく飛び入り営業するが、冷たく断られる。
それでも何とかパンフレットだけは置いてくる事ができた。
次につながればいい。
廊下で別の会社の営業らしき人とすれ違う。
この会社はやたらと上が、上がと厳しいのであいつはきっとパンフレットさえも置かせてもらえないだろう。
ところがあいつが入って数秒後、さっきまで無愛想だった受付の女が、喜ぶ声が聞こえた。
「桜饅頭!うれしい、これみんな好きなんですよ」
俺は耳を疑った。
桜饅頭なんて都市伝説じゃなかったのか。
あんな普通の饅頭で喜ぶのか。
桜饅頭ってそんなにおいしいのか。
俺は思わずその場に走り戻った。
受付の女も営業も他のやつらもみんな走って戻ってきた俺をポカンとして見た。
「桜饅頭そんなにおいしいですか?俺の村で作ってるんです……」
「すごく美味しいですよ。あんこはしっとりとして上品だし、皮は桜の風味がするし」
受付の女が笑顔で幸せそうに教えてくれた。
その日の夜、久しぶりに田舎をネットで見てみた。
桜が一面に咲き乱れ、山は堂々とそびえ立つ。小川は透き通って緑の苔が石にぴっとりついている。
心がどんどん落ち着いていくのを感じる。
俺の故郷。
農業をしている親父達が思い浮かぶ。
自分は何をしてきたのだろう。
成績をあげて、金を沢山もらっても使い道もないくせに。
子供の頃みたいにのんびり暮らしたい。
帰ろうかな、田舎に。
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