愛しの坂口さん

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今朝の朝会はいつもと違った。 気のせいかみんな引き締まった表情をしている。 部長が彼を前に立たせた。 「というわけで、みなさんご存知かと思いますが、東京本社に坂口君は移動になります」 一ヶ月前からわかっていた事とは言え、頭を何かで殴られたような衝撃がある。明日からは坂口さんを見ることはできないのだ。 「今まで皆さんには大変お世話になりました。皆さんと別れるのは、ウウウッ大変悲しく」 坂口さんがワザと泣き真似をして、みんなの笑いを誘った。 坂口さんは絵に描いたような、素敵な人だった。 東京の有名私大学を卒業し、スポーツ万能、身長も183センチあるらしい。 誰に対しても別け隔てなく優しく、かといって厳しい面も持ち合わせてて、おまけに仕事もできる。 地味なクソデブスのこの私にだってそれは同じだった。 たいていの男性社員は用事でもない限り、私に話しかけない。 それなのに坂口さんは休憩室で会えば冗談を言って笑わそうとしてくれたり、仕事では厳しく叱ってくれたり、私が毎朝している机拭きにも唯一気がついて「いつもありがとう」と言ってくれた。 私が初めて好きになった人 好きで好きでたまらない人。 寝ても覚めても坂口さんの事を考えている。 勿論、私以外の女子社員もみんな坂口さんの事が好きだったと思う。余り仲良くないので話したことはないけれど、彼女達の言動からそう確信している。 子持ちのベテラン社員さんも「もうちょっと若ければ」ってよく口にしてフロアにいるみんなを笑わせている。 けれども当の本人は大学時代からずっと付き合ってる彼女がいるらしい。 美人で頭が良く有名企業に就職している。 他の女子社員がこの地に来てデートしている現場を何回か目撃したことがあり、自分達には勝ち目がないと一目見ただけで理解できる人だったようだ。 だから彼が原因で揉める事はなかった。みんな指を咥えて見ているしかできないのだから。 そんな彼が今日を最後にいなくなってしまう。 休憩所で聞こえてきた会話では今日記念に告白すると意気込んでいる強者もいるようだ。 けれど私にはそんな事できない。 だってデブスの私から告白されて、一体誰が嬉しいというのか。 ハラスメントでセクハラ対応窓口に通報されてしまうだろう。 無責任に「自分の気持ちを伝えるのが大切」というポジティブな人に言いたい。 「体重100キロ越えの私が告白してきて嬉しいという人を探し出して来いや」 けれど、最後に坂口さんにこれだけは渡したい。 初めて男の人の為に買ったハンカチ。 何日もデパートをうろうろして、買ったハンカチ。 本当は手作りのお菓子を渡したかったけども、得体の知れないやつから貰う手作りは恐怖だ。 そんな事よくわかっている。 だから、どうしてもこのハンカチを渡したかった。 このハンカチが一回だけでも坂口さんの役に立てるかもしれない、そう信じている。 けれども渡すチャンスはなかなか訪れない。 お昼が過ぎ、3時が過ぎ、無情に時は流れていく。 坂口さんの周りには人が絶えなかった。もちろん仕事の引き継ぎも殆どだけれど、周りの男性社員も彼との別れを惜しみたいのだ。 そうそう渡すチャンスなんて訪れない。 とうとう退社時刻の午後六時になってしまった。 部のみんながソワソワし出す。坂口さんも自分のカバンを持ち席を立った。 男の人達は彼と抱き合ったり、握手したりしている。 女の人達はやっぱり考える事は同じだ。みんなプレゼントを渡している。 私は……というと、その輪から外れた所でその様子を見ていた。 なかなか坂口さんに近づく勇気が出なかった。 私なんかから貰っても嬉しくないだろう。 そんな気がする。 手に持っていたプレゼントを私の大きな体の後ろに隠した。 その時だった。 誰かに背中を思いっきり押された。 「行ってきなさいよ」 後ろを振り向くと、部の女の子達だった。 普段滅多に喋ることのない、どちらかと言うと嫌われていると思ってた子達。 彼女達はもうプレゼントを渡し終えてみんな涙ぐんでいる。 「坂口さん!河合さんのとこも来て」 誰が親切にも大声で叫んでくれていた。 気がつくと坂口さんが私の目の前にいた。 「あ、あの、あの……」 「河合さん、頑張って。最後なんだよ」 後ろから強力な応援団がエールを送る。 「こ、れ、使って下さい」 なんとかそこまで言うと、震えた手で紙袋を渡した。 「河合さん、ありがとう」 坂口さんは優しい笑顔でもらってくれた。 「河合さん、これからもピュアなハートで頑張って!あと少し痩せたら絶対可愛くなる!」 坂口さんがそう言うと、周りから「失礼だろ」とヤジが飛ぶ。 でも全然失礼じゃない。 自分の身なりを整えようと自然と思えた、痩せたい。痩せて綺麗になりたい。 坂口さんは気がつくともう出口の所にいた。 みんなが、大きく拍手をして坂口さんは出て行ってしまった。 私は初めて声に出して泣いた。 人目も気にせず泣いた。そんな私を部の女の子達が慰めてくれた。 きっと同じ気持ちだったんだろう。 その日以来、部のみんなが優しくなった。 女の子はランチに誘ってくれるし、男の人達は「坂口さんとの約束通りダイエットしてる?」と聞いてくれる。 私も頑張って体重を減らしている。 いつかどこかでまた会える日に約束を守ったと言いたい。
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