【掌編】幕を生む

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 プールから三メートル上空の飛び込み台に立つと、私はいつも中学三年生の夏の日を思い出す。  幼なじみの芽々が起こした、小さな事件のことを。 「幕の向こう側にはさぁ、別の世界があるんだって」  スイミングスクールの帰り道、私は芽々の家に寄ってホットミルクを飲んでいた。僅かばかりに張る膜を人差し指で救い上げて口の中に入れる。美味しいわけではないけれど昔からの癖だった。 「膜って、これのこと?」  思わずホットミルクに張った膜を指さす。 「ううん。劇場とかにある幕の話」  まぁ、同じようなものか。と芽々が笑う。 「幕も膜も一緒なんだよ。例えば一つ飛ばしの座席の間にも幕はあるし、鏡越しに目が合ってから、ふと視線を逸らしたときにも幕は生まれるもんなの」  芽々はときどき難しいことを――いや、おかしなことを真剣に話すくせがある。それを嬉々として耳を傾ける私にも問題があるのだろうけど。 「薄い壁の内側と外側で生きる温度が違う。私みたいな中途半端な人間ははっきりとした境界があった方がわかりやすいんだよ。諦めも、期待も、私の与り知らないところで私とは勝手に無関係にしてくれる」  水泳で有名な高校から私にスカウトがあった日から、芽々は生き方についてよく考えるようになった。声が掛かったことについて芽々は喜んでくれたけど、それからはほとんど話題にすることはなかった。  私は私の方で、スカウトが喜ばしいことなのか別問題だった。両親は昔から私のことを『将来有望な飛び込み選手』としか見てくれなかったのだ。  小学四年生から始めたスイミングスクールも、両親が「他の人より一つ抜きん出たものを身につけなさい」と始めさせたことで、本当は通いたくなんてなかった。芽々も一緒にやりたいと言ってくれたのが救いである。  スイミングスクールに通い始めて数ヶ月、良くも悪くも私は好記録を出し続けて、自己タイムを次々に塗り替えていく。もっと早く。もっと有名に。もっと――  両親の期待は私の心と体を少しずつ蝕んでいく。睡眠時間、食事、大人への振る舞い方、徹底的に叩き込まれて、徹底的に私個人を追い出していく。  ある日、芽々がノートに何か数字を書き込んでいた。「宝くじが当たったらさ、小学校プールの水を全部ミルクで埋め尽くしたいんだよね」 「なんだそれ」  本人は至って真面目らしく、私に計算式を教えてくれる。二十五メートルのプールをミルクでいっぱいにするには、六十万リットルが必要だ。ミルク一本を百円と安く見積もっても六千万円も掛かってしまう。  宝くじが当たったとしても六十万本もミルクは買えないし、保存する場所もないだろう。……そういう話でもないのかもしれない。 「幕を生み出したいんだ。そしてそこに飛び込みたい」  芽々の言っていることはいつもよくわからない。よくわからないけど、少なくとも私より自由である。人は不自由な方が結果を残せるなんて、なんとも皮肉な話だ。  全国中学校水泳競技大会の前日、私は無理を言ってススイミング場を貸してもらった。もっと早く。もっと有名に。両親の期待を裏切ってしまったら私は私でいられなくなってしまう。もっと、もっと、もっと。  するとどうだろう。先に芽々が借りたいと言って練習しているそうだ。大会には出ないのに練習熱心だなと思いつつ、扉を開けると芽々が私服で立っていた。 「あ、よかった。ちょうど終わったところだから」 「終わったところって……」  プールを覗くと水が空っぽになっていた。 「本当は全部ミルクにしたかったんだけどお金がないからさ、水で薄めてもごまかせるかなと思って」  笑う芽々の傍らにはパックが十本近く転がっていた。 「え、入れたの?」 「そう。でも意味なかったから全部抜いちゃった」  プールの縁に座って足をぶらぶらとさせる芽々に釣られて私も隣に座る。少しだけ残っていたミルクを差し出して「飲む?」と勧めるのを断って頬をゆるめる。 「幕なんて壊しちゃえばいいんだよ。『辛かったら逃げてもいい』だなんて無責任なことは言わないけど、幕の内側と外側のどっちに住むのかは自分で決めていい」  いつもそうだった。芽々は別に私のことを僻んでスカウトの話をしなかったのではない。ただ、私がその話をされたくないと理解してくれているからなんだと。 「幕なんて壊しちゃえばいいんだよ」  その日、芽々はコーチからこってりと叱られ、翌日の私は散々な記録を叩き出した。けれど、不思議と嫌な気持ちも、悔しい気持ちもなくてただ晴れやかだった。  人生の自由形ならきっと、今までで一番の記録だろう。  目を開けて、静かに『今』の流れに身をゆだねる。  結局、スカウトを蹴った私は普通の大学生になってしまったけど、今は趣味程度に水泳を続けていた。 「おーい!」  と、私を呼ぶ芽々の声を合図に、幕へと飛び込む。  開いたのか、閉じたのか。  それは、幕の向こう側で考えることにする。
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