①私の世界

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①私の世界

 はぁ、と息を吐けばそれは白く染まり、冷たい空気に馴染んで消えていく。  牡丹雪が夜の闇から小さな駅の光を浴びて、静かに降り線路へ降り積もれば、そのままの姿のものと、ゆっくり音もなく溶けていってしまうものがあった。  それを田村遥菓(たむらはるか)はゆっくり瞬きをしながら見つめる。  手袋をしていても指先がかじかんでしまうため、雪国の寒さをしのぐための大きなコートにあるポケットに手を突っ込んで、首に巻いているマフラーに鼻辺りまで顔を埋めた。  そこで息を吐けば、まるでヤカンが蒸気を噴くように白い息が立ち上った。顔を埋めた半分は温かいけれど、これを続けていけば、マフラーが寒さと息の暑さで汗をかき、冷たい思いをするのは自分だ。  少しだけ温まった顔をまた寒空の下へと出し、真っ暗闇の空を見つめた。  その少し横に、電光掲示板がある。  そこには遅延の文字が光っていて、先程のアナウンスでも別の電車を使うよう促すそれが流れた。それによりここにいたほぼ全員が動き、いつ来るか分からない電車を今、遥菓だけが待っている。  人身事故だと言っていた。たしか。  こんな寒空の下で色々な作業を行う彼らに少しだけ同情する。この大きな雪の結晶の塊だ。頭には雪が積もっているに違いない。 「よくこんな寒い日に自殺なんてするなぁ」  誰もいないのを良いことに、遥菓は遅延の文字を見ながら吐き出した。  踏み出した一歩。浮く身体。その感覚を想像することは出来るけれど、同じそれを経験しない限り分からないだろう。けれど自分にはそんな勇気はないと自嘲した。  人間はいつだって苦しみを胸に抱いている。  それを表に出すか、裏に隠すかの違いがあるだけで、皆がそれぞれ痛みを受けて歩いている。  大小なんて関係ない。その人が苦しいならば苦しいのだ。痛いのは辛いし悲しい。  そこから解放される方法は、きっとお偉い憲法などに引っかかるものだろうし、この遅延のように、誰かに迷惑を掛けてしまうものだろう。  これこそ皆平等に与えられる死、なのだけれど、それがどこでどう咲き誇り散るのかは分からない。 (私もいま線路に下りて横になって雪に埋もれちゃえば、電車に轢かれてこの世界からおさらば出来るのかな)  感覚がなくなってきたつま先をほんの少し動かして、遥菓は小さく笑って白い息を紫煙のように吐き出した。 「無理だな。私には出来ない」  死ぬ勇気だって無いし、他の人に迷惑を掛けることを考えたら踏み出す一歩が出てこない。  ともすれば簡単にこの命を潰すことが出来るのに、それをしないで生きているのが実はすごいことなのではないかと遥菓は思う。けれどだからこそ命とは尊くて、大切なものなのだろう。  だが遥菓にとってはそんなもの尊くないし、大切でもない。重さも軽さも分からない。ただ与えられた人生というレールに沿って歩いているだけだ。生きている限り、否、生きなくてはいけないから仕方なしに歩いているにすぎない。  しんしんと降り続ける雪を見つめ、遥菓は唇を噛み締めた。  ほんの少しかさついているそれを前歯で剥がし、口の中に広がった鉄の味に眉をひそめる。 (早く、人生なんて終わってしまえばいい)  どこか遠くからサイレンの音が響く。消防車、パトカー、救急車、どれでもいい関係ない。  ポケットから手を出し、両腕を広げた。 「私のこと、埋めちゃっていいよ」  どうかお願いです、神様。私をこの銀世界の一部にしてください。  身体や鼓動、全てを凍らせて永遠の眠りを与えてください。  そう願ったところで、いざ本当にそうなればきっと私は怖がるだろうけれど。  明日、遥菓はここから去る。  それは死ぬということではなく、ただ実家に帰るというだけ。  一人暮らしをしながら介護関係で就職して働いていたのだけれど、精神的に落ち込んでしまって退職を余儀なくされた。それを心配してくれた家族が、実家に戻っておいでと声を掛けてくれたのだ。  ありがたさと、また命を落とす勇気がなくなったという絶望感。どちらも混ぜこぜで、笑えばいいのか、泣けばいいのか分からない。  ただ、遥菓は思う。  この世界はほんの少し優しくて、残酷だ――――と。  私を生かそうと手を伸ばしてもらっているに、私はそれを掴むことが出来ないでいる。  生きたくない。もう放っておいて。私はこのまま消えてなくなりたいの。そう思っているのに、私は結局引っ越しの準備をして、明日実家に帰ることにしている。  助けてもらうことを拒んでいるくせに、掴めない伸ばされた手がある方向に腕を伸ばしているのだ。こんな命、さっさと消してしまいたいのに。  矛盾しているのは分かっている。だけど、どうしたら。 「誰か、助けて欲しいんだけどな」  涙が瞳を潤ませ、瞬きひとつでそれは零れてしまうだろう。それを必死に我慢して、遥菓は笑った。 「誰か、いますぐ、私の背中を押してよ」  生かそうと伸ばしてくれる優しいそれは、解釈違いです。  だからねぇ、お願い。 「私を、この世界から追い出して」  雪が降る。まるで時が止まったかのような静寂さの中で、大きな牡丹雪だけが時を刻んでいる。曇った冬の夜空に星はなくて、ただ遅延の文字が点滅するだけ。  あぁ、私は。 「早く、終わりたいっ」  どうして死ぬことが出来ないのですか?
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