⑤犬猿の仲とは言うけれど

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「今日はありがとうございました」 「こちらこそ、ゆっくり話が出来て嬉しかったー!」  安堂と遥菓は「じゃあ明日もよろしくお願いします」と互いに手を振り、それぞれが帰路へと向かう。  丁度仕事終わりの時間に重なったようで、あちこちにスーツを着たサラリーマンが歩いていた。 (あ、そうだ)  会社の自転車置き場まで戻り、鍵を差し込んでから跨がる。思いついたのは先程の話に出たチョコレート専門店。話を聞けば聞くほど美味しそうで、チョコ好きの遥菓は絶対に一度は食べてみたいと思っている。 (今日話を聞いてくれたお礼に、安堂さんに買ってこよう)  善は急げ。自分も食べてみたいのだから一石二鳥だ。  ショッピングモールに行く為には家を通り過ぎないといけないけれど、安堂が喜んでくれると思えば全く苦じゃない。 「よし」  遥菓は自転車を漕ぎ始め、大股で素早く歩くサラリーマンを超しながらチョコレート専門店へと向かった、が―――― 「えー・・・・・・?」  無事チョコレートを買うことが出来た遥菓は、浮ついた気分で紐がついた立派な紙袋を揺らしていた。  オープン記念として試食のチョコレートを食べてみたのだが、予想以上の美味しさで、絶対に安堂も気に入ると喜んでいたのだ。  それなのに。 「なーんでまたここにいるだろう」  通り過ぎる本屋。行きの時は誰もいなかった場所に、またよく知る顔がいる。彼も帰り際に寄ったのだろうか。  前と同じように本棚を見つめている片岡に、遥菓は一瞬デジャブかと思った。 「やっぱりあそこで何か探してるのかなぁ」  真剣に見ているのか、彼がこちらの視線に気付くことはなく、横や後ろを通り過ぎる客の存在も認知していないかのようだ。それだけ集中しているのだろう。 (でも何か探してるなら、検索機械とか、店員さんに言えばいいことだよね)  片岡を見つめながら考えるも、特に動きもしない彼に遥菓は溜息をついてその場を離れた。  別に声を掛ける必要もないし、もしかしたら片岡も嫌がるかもしれない。どう転ぶか分からないのなら、やはりこの間と同じように見て見ぬふりをしていた方がよさそうだ。  外へ出ればもう暗くなっており、電灯が辺りを照らしている。さすがこの季節では日が落ちるのも早い。 「でも本当にあそこで何してるんだろう」  ひとりで本棚を見つめる姿は決して楽しそうには見えなかった。なにかを吟味しているようにも感じるが、どの本を買おうか迷っている様子でもない。  会社で聞いてみれば案外あっさり教えてくれそうだが、人には人のプライバシーがある。助けを必要としていないのならば、口出しする必要はないだろう。  小さく頭を横に振って自分の自転車のところまで歩いて行く。  兎にも角にも無事にチョコレートが買えて良かったと、また手で持っているそれを揺らし、小さく笑った。  いつも親切にしてくれているお礼と、今日話を聞いてくれたお礼。 (安堂さん、喜んでくれるといいなぁ)  また今度ゆっくり話をする時間が作れたら、彼女の愚痴を沢山聞こう。日々顔を合わせている施設長に対する文句はきっと果てしないから。  自分ばかりたよるのではなくて持ちつ持たれつ。そんな関係を築けたらいい。  そう思ってから数日後のこと。無事渡せたチョコレートは彼女を喜ばせ腹の中へと消えていったのだが。 ――――私と片岡の野郎どちらの話も聞いてくれる田村さんはまさに救世主!  その言葉通りの問題が起こった。  それはある意味普段通りの光景で、普段とさして変わらない問題。だが、見過ごすことの出来ないものである。 「なんでまた間違ってるんですかっ!」  眼鏡のフレームを持ち上げながら、利用者である藤本海太(ふじもとかいた)が叫んだ。  一瞬にしてトレーニングルームに緊張と静寂が訪れる。他の利用者の視線も藤本へ注がれた。 「僕はちゃんとやりました!」 「そうですね。藤本さんが頑張っていたのは知っていますよ」  対応しているのは安堂だ。柔らかい声音で藤本に話し掛けるも、彼はまた眼鏡を上げ直して「じゃあなんでですか!」と怒気が含んだ声で返す。 「なんで間違いがあるんですか!」 「藤本さん、最後に全部見直ししましたか?」  彼が持っているプリントを覗き込み、赤ペンでチェックされている箇所を指さした。  どうやら数値チェック――正しい請求書を見て、渡された書類に不備が無いかを確認する作業――で間違いがあったらしい。前々から彼はこれを不得意としていたが、ついに苛立ちがピークになったようだ。 「見直してませんよっ!」 「前に長井さんから見直しするよう言われませんでしたか?」 「うううう」  藤本は呻き、そして立ち上がってそのプリントを床に叩きつけた。 「うるさいですよっ!」  またシンとした空気が事業所全体を包み込む。このまま周りの利用者に迷惑を掛けるわけにもいかないだろう。安堂は首を横に振って「ダメですよ」と、床に叩きつけられたプリントを拾った。 「藤本さん、それはしちゃいけません」 「うるさいってば!」 「ちょっと面談室に行きましょうか」 「大声出すと、周りの人がびっくりしちゃいますからね」と続け、安堂は面談室へと藤本を促すが、彼は「やだ!」と拒否する。  身長が高い彼が地団駄を踏むように腕を動かせば、多少なりとも恐怖を覚える。その強い口調もあって、殴られるのではないかと思ってしまうのだ。 (このままじゃちょっとヤバいな)  静かにスタッフルームから見守っていた遥菓だが、立ち上がって「はーい」と少し大きめな声で利用者たちへ言った。 「ちょっとね、びっくりしたと思いますが、皆さんは皆さんで引き続き作業しましょうね」  出来るだけいつも通り。けれど優しく、丁寧に。少しでもこの空間に生まれた緊張を解かなければ。彼に続いて不安定になる利用者が出かねないからだ。 「ほら、他の方に迷惑が掛かっちゃいますから、面談室へ行きましょう」  極めて冷静に言う安堂だったが、予想外のところから声が掛かった。 「――――なぁ藤本さん」  響くような低い声。そこには感情は一切込められていない。  声がした方へ反射的に振り返れば、デスクチェアから立ち上がった片岡がゆっくり藤本の方へ行く姿があった。 「何に対してそんなに怒ってるんだ?」  言いながら彼の前で止まり、安堂が持っていたプリントを親指と人差し指で掴んで取って揺らして見せる。 「これか?」 「・・・・・・そうですよ」  片岡の声に多少落ち着いたのか、それとも怒られていると思ったのか。どちらかは分からないが、藤本の声のトーンが一つ下がり、叫ぶことも無かった。 「間違えがあったのが嫌だったのか」 「だからそうだって言ってるんですよ」 「じゃあどうしてこれを床に投げた?」  静かに話を続ける片岡に、スタッフと利用者が静かに見守る。 「それは・・・・・・」 「むかついたからか?」 「・・・・・・・・・・・・」  無言は肯定。だが藤本もそうなのかは分からない。そんな彼に片岡は「おら」と肩を軽く叩いた。 「面談室で話してみっか」 「うう・・・・・・」  藤本はどこか悔しそうに顔を歪めるも、「分かりました」と言い、面談室の方へ歩き出す。 「手前の方なー」  それをゆっくりと追い掛けながら片岡は言い、二人で面談室へ消えていった。 「それじゃあ、それぞれ個別訓練に戻ってくださいね」  パタンとドアが閉まる音を全員が聞き、それからハッとするように長井の言葉に耳を傾ける。そしてようやくいつものような空間へと戻っていった。  安堂は〝こういうことが〟苦手な利用者の元へ行き、「びっくりしましたねー」と声を掛ける。こういう小さな不安を解消しなければ、精神的に落ち込むことへと繋がるからだ。  遥菓も他は大丈夫だろうかと休憩室の方まで一度回りしてみたが、特に問題はなさそうだ。トレーニングルームに戻り、話ながらも周りを気にしていた安堂と視線を合わせ『大丈夫、他にはいない』と頷いてみせる。すると安堂も小さく首を縦に振って、利用者との会話を続けた。  こういう問題はある意味頻繁で、その時は今のようにアイコンタクトをする。あれほど大きな声で叫ぶ利用者は多くないが、一人でもいればそれが一度や二度で終わるわけもなく、何かあれば怒りの感情を露わにする。そのため珍しい光景であり、そういう人が通所していれば別段いつもと変わらないものになるのだ。  感情を露わにするのは決して悪いことではない。感情に蓋をしてストレスを溜め、一気に爆発させた方が厄介だ。その怒りを止めるのも苦労するに違いない。  しかしここは就労移行支援――――就職を目指す場所だ。社会にとって不適切な行動は慎まなければいけない。けれどそれは彼にとってはすごく難しいことだろう。そういう障害特性だからだ。  スタッフ全員は障害者枠を含め就職は厳しいと思っているが、彼の父親が頑なに一般就労させようとしている。  彼の特性を考えればよくてもA型だろうに、両親が首を縦に振ることは無い。このまま無理矢理就職させても、彼が苦労して傷つくだけなのに。  こういう場所で問題視されるのは決して利用者だけではなく、両親の説得も必要になるのだから悩ましい。 (どうしたもんかなぁ)  定位置に戻り、遥菓も仕事を再開する。  その人その人にあった支援が必要だと分かっていても、それがいかに大変で難しいのか。こちらの思い通りにトレーニングを積み重ね、立派な社会人になれるのならば苦労はしない。むしろそれに苦労するからこそここに通っているのだ。  言い方は悪いが普通に就職出来る人とは少し違う面があるため、それを自分でコントロールしたり、会社側への配慮事項として伝え、少しでも他の人と同じように働けるようにしていく。それは遥菓も同じ課題である。 (とは言いつつも、難しいよね)  自分もまだ安定とはほど遠い。小さなことで悩んでは、他のスタッフに助けてもらっている状態だ。  きっと他の場所に就職したとしても、ここまで続けることは難しかったんじゃないかと今なら思う。 「あの人はさぁ」 「あ、はい」  ふと隣に座る長井が口にした。 「障害者にも全く容赦がないんだよね」  先程の片岡の行動はあまり見たことがない。しかし彼は言う時は言う。その場を締めるようなこともあるが、基本的には施設長としての仕事をこなし、直接利用者に関わることはしない――――まぁ、彼の言動からしたらそうなるのも必然なのだが。  それに長井は「でもね」と続けた。 「それだけここにいる全員を同じように見てるんだよ」 「・・・・・・はい」  遥菓は小さく頷き、ゆっくりと息を吐いた。どうやら身体に力が入っていたらしい。  確かに片岡は利用者とスタッフ、どちらも同じ接し方をする。そのせいで圧力があると言われてしまうけれど、ある意味それは誰であっても差別していないということになる。果たしてそれがいいのか悪いのかは分からないけれど。 (でもきっとそれで救われる人はいるだろうな)  そう思いつ、スタッフルームから再度トレーニング室の方へ視線を向ける。どうやら安堂と話していた利用者は落ち着いたようで、もう個別の訓練に戻っていたが、まだ安堂は不安なのだろう。その人の隣へパソコンを持って移動し、そこで仕事をしていた。  きっとその向こうにある面談室ではいま藤本と片岡が話しているのだろうが、一体どんな話をしているのか検討もつかない。しかしそれを気にしていては仕事にならないと遥菓は気合いを入れるよう軽く両頬を叩き、請求業務の続きを始めた。
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