①私の世界

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~ * ~ 「――ということなので、今日の見学者は私が対応します」 「片岡さんは今日市役所への見学同行で午後戻りの予定ですけど、すぐ戻って来ないでしょうね」 「ぶっちゃけ私はいない方が楽ですけどねー。でもまぁ、午後は私も長井さんも来客対応だから、田村さんひとりになっちゃうし、さっさと帰って来て欲しい部分もあります」 「はは、私はひとりでも大丈夫ですよ。午後は利用者さんからのチェックも少ないですし」 「田村さんは働きすぎなんですー。使えない施設長を上手く使ってやってくださいー」 「まぁまぁ、それがね、田村さんの良い点でもあるんですから」 「そうですけど・・・・・・無理は禁物ですからね!」 「はい、ありがとうございます」 「それじゃあ、今日も一日よろしくお願いします」 「よろしくお願いしますー」 「よろしくお願いします」  軽く頭を下げてから、遥菓は目の前のノートパソコンに向き直る。  画面に映し出されたカレンダーには、ここのスタッフのスケジュールが記載されており、先程言っていた見学対応、来客対応、そして見学同行が埋まっている。  他にも個別支援計画書の作成。ブログの内容作成。利用者との面談など、隙間無くスケジュールが詰め込まれていて、それぞれがそれぞれに忙しいと溜息をついていた。  事務である遥菓は、書類をスキャンして格納。経理補助に請求業務、それに来月の予定と利用者に配布するシートを作らなければいけない。その合間あいまに利用者支援しなければいけないのだから、正直座って事務の業務にひたすら取りかかれるわけではないため、今日一日で終わる仕事量ではない。他のスタッフと同様、溜息をつきたくなる。 「かんっぺき人不足ですよこれ」  今日見学の対応をする女性スタッフ、安堂瞳(あんどうひとみ)は座っている緑色のキャスター付きデスクチェアの背もたれに寄りかかり、腕を伸ばしながら言った。 「利用者の数も増えてるし、契約書的にこれ絶対アウトですから」 「まぁ、上の人間が人材補給はしないって言ってるんだから、仕方ない仕方ない」  それに苦笑しながら答えるのは長井忠信(ながいただのぶ)だ。同じデスクチェアに座り、個人情報などが置いてあるスタッフ席の方で――と言っても、利用者が座る席との隔てはホワイトボードしかないのだけれど――痛めている腰をサポートするものを置き直し、「よっこいしょっと」と座り直した。  その隣、スタッフルームの一番奥の窓際の席に遥菓は座っている。そこの窓からはケヤキの並木道が見え、茶色い葉が敷かれている歩道には、ここら辺で働いているスーツ姿の人が忙しなく歩いている様子が窺えた。 「片岡さん、そういうのちゃんと上に言ってんですか?」 「エリア部長には訴えてるみたいですけど、まぁ相手にされないとか」 「元ヤンキーなくせに、上司の圧力に屈するとかどんだけ?」 「すでにこの事業所でもその性格滲み出てるんですから、これ以上元ヤンっぽく振る舞われたら俺たちが困りますよ」 「まぁそうですけどー」  長井の言葉にうなだれる安堂。明るめの色に染まっている髪が肩をくすぐるように揺れる。  遥菓がこの事業所に来た時は一本にしばっていたが、最近になってバッサリ切ったのだ。  しっかり睫を上向きにし、アイシャドウで目元を輝かせている彼女は、遥菓よりも三つ年下かつ先輩スタッフである。  血気盛んな彼女は、ここの施設長、自分たちの上司である片岡光(かたおかひかる)と大変仲が悪い。まさに犬猿の仲といえよう。  片岡がいるスタッフ席には決して近寄らず、利用者が座っているトレーニングルームにいつも座っている。だが安堂もそこにずっと座っているということは出来ず、利用者に声を掛けられては面談をし、他の機関から彼女を呼ぶ電話のベルが鳴りっぱなしだ。  長井は長井で、そんな犬猿の二人に対してどちらの味方につくわけでもなく、中立の立場で微笑んでいる五十二歳、バツ三のおじさまである。  会社で中立の立場にいれば結構な精神を削られるものだろうが、そういうものを全く意に介さず、自分のペースを保ち続ける強者だ。  ちなみに遥菓の目の前の席はここの施設長、片岡の座る定位置で、今は開きっぱなしのノートパソコンと何らかの書類が散らばっている状態。ザ、事務系統が全然出来ない男、である。  今日は朝から市役所への見学同行の予定のため、目の前の席には誰も座らないだろう。いや、もしかしたら午後にも現れないかもしれない。  施設外での仕事の時は、ほとんど彼は外に出たままで、センターでの仕事を放棄する。  どうしてこんな男が、いや、元ヤンキーが施設長としているのか、常に疑問だと安堂は首を傾げては怒っている。  悪い人ではないのだが、若干憎めるところがまた質が悪い。憎めない相手ならば安堂もここまで吠えることはしないだろうに。 (まぁ、何だかんだバランスが取れたチームなんだよね)  遥菓はどんよりと曇った空を窓から見上げ、小さく溜息をつき、そして少しだけ笑った。すると。 ――――プルルル、プルルル。  電話が室内で鳴り響く。 「あー、きっと喜田さんだわ」  その音ひとつで安堂はまた溜息をついた。  これは勘であり、勘であらず。ここに通所している利用者を相手にしていれば、その人がどんな人なのか嫌でも分かるようになる。むしろ我々スタッフはそれを知っていなければいけない。  そのため、今日の天気や温度、電話が鳴る時間だけで、誰がどういう理由で電話を掛けて来るのかが大体予想出来るのだ。 「今日も在宅訓練に促しちゃいます?」  遥菓がノートパソコンの向こう側に置いてある子機を手に取り、安堂と長井に視線を向ける。すると「それじゃあダメなんだけどなぁ」と彼女は言い、「ま、仕方ないでしょう」と長井は首を横に振った。 「じゃあ取り敢えず今日も在宅にして、十五時には絶対こっちに電話するよう言っておきますね」  苦笑しながらそう言うと、二人それぞれに「お願いします」と若干呆れた声が返ってくる。それに遥菓も同意ですとばかりに溜息をついてから息を吸い、笑顔を作って子機のボタンを押した。 「はい、お電話ありがとうございます。就労移行支援・みらいの田村です」  スラスラとこの台詞を言えるようになるまで半年掛かった。今ではすんなりと言葉に出来るけれど、ここのスタッフになった頃は呼び出し音が聞こえると、先程の台詞を書いた紙を片手に握りしめて対応していた。そう考えると進歩したなぁと自分でも思うことが出来る。  いや、電話だけじゃない。  まずここに利用者として通っていた、否、もっと前の時を思い出せば、現在に至るまで劇的変化を遂げているだろう。きっとあの頃の自分に言ったところで信じられないに違いない。 「はい、喜田さんおはようございます。どうされました?」  予想通りの相手に遥菓が対応していれば、この事業所の入り口から「おはようございます」という、沢山の声が聞こえ始めた。現在九時四十五分。利用者がここに通所してくる時間だ。 「はい、そうなんですか。今日もちょっと体調が優れないんですね」  小さなことでもプライバシーに関わるため、遥菓は窓の方を向き、他の人には聞こえないように背中を丸くする。 「気持ち的な落ち込みはどうですか? はい、はい、そうですか・・・・・・ちょっと辛いですね」  頷きながら、窓の外を見る。ビルの八階にあるここは、鳥が飛ぶ姿もよく見え、薄暗い雲を背景にカラスが横切っていくのを視界に映しながらもう一つ頷いた。 「午後の通所はどうですか? 不安? そうですよね。そしたら今日も在宅の方をしましょうか」  在宅訓練なんて、自分が利用者だった時は聞かなかった単語だ。ここに通所が難しい利用者が家で掃除や片付けをする、それが在宅訓練という名前がついている。最近になってそういうものが出来たのだが、簡単に言葉に出せるのはやはり電話応対自体に慣れたのだろう。そのまま電話の対応しながら今にも雪が降りそうな雲の様子を見て、どこか懐かしく思う。  死にたいと祈り続けたあの雪国はもう遠く、ここでは滅多に雪は降らない。それが少し寂しくて、けれどどこかホッとする自分もどこかにいて―――― 「そうですね。そしたら十五時頃にこちらにお電話ください。その時にいま言った作業が出来たか教えてくださいね。はい、はい、絶対掛けてくださいね。では失礼します」 ――――私はまだ、レールの上で取り残されてる。  頭の隅でそんなことを思いながら、遥菓はボタンを押して電話を切った。
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