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~ * ~
「おかえり、遥菓」
今から三年前。一人暮らしをしていた北海道から、北関東にある実家に帰った。
実家といえど転勤族であったため、ここに帰るのは初めてだ。今までマンション暮らしの家が実家だったが、父の定年退職金でマイホームを買い、現在はどこかに移り住むこともなく、その家で暮らしている。
しかし定年後をゆっくり過ごすことはなく、働いていた同じ会社で再雇用されたため、今もバリバリ現役だ。母も電車を使って勤務先であるスーパーへ出勤している。
本当は一番働いていなければいけないのは自分なのに、どれだけ情けないのだろう。それでも両親がこちらを責めることはしない。
優しい人たちだから、精神的に病み、いつ自殺するか分からない娘を放置することは出来なかったに違いない。まず北海道で一人暮らしをすることさえ心配していたのだから、今回退職した件は不安で仕方が無かっただろう。
その優しさに甘えているわけだが、それこそがありがた迷惑だと思ってしまう自分が大嫌いだ。そもそもおかえりと言われてもピンと来ない。初めての土地だし、初めての一軒家。帰って来たというよりも、北海道から引っ越しただけの感覚だ。
「ただいま・・・・・・」
それでもおかえりと言われたのならば、こう返すべきだろう。
キャリーバッグを転がしながら、出迎えてくれた両親にぎこちなく笑顔を向けた。
久しぶりの実家暮らしを一言でまとめると、こういうもんだったなという、脱力した言葉しか出てこない。
働いていない、いわゆるニートの自分は家に引き籠もったままで、出掛けるのは通院し始めた心療内科くらいである。
忙しそうにする両親に申し訳なく思いつつも、ベッドに横になったまま動けない日々。それが苦痛なのに、この現状をどうにかしようという気力もない。
気分障害ですねと淡々と告げた医者の言葉だってどうでもよくて、今の自分にどんな障害の名前を付けられようが苦しいのは変わらないと、擦れた気持ちを持て余す。
それでも医療というものはすごいもので、処方された薬を飲み続けると少しずつだが動けるようになってきたのは、実家に越してきてから一年経ってからだった。
家事の手伝い。庭への水やり。障害は完治するものではないが、少しだけ楽になった身体と心は大変ありがたい。それだけでこのままくすぶっていてはダメだという気持ちにさせてくれる。
そして行き着いたのが、『就労移行支援』というものだった。
就労移行支援とは、簡単に言えば職業訓練施設みたいなもので、就職するのを手伝ってくれる機関である。
引き籠もりや障害者、そういう人が将来働けるようトレーニングをし、就職へと繋げていく場所だ。それを見つけたのはスマホで求人を探しているときで、初めて就労移行支援という存在を知った。
それからはもう流れに身を任せるだけである。
『就労移行支援・みらい』
通所を始めてみれば、そこの事業所には様々な障害を持つ利用者がおり、遥菓と同様に精神的に病んでしまった人も沢山いた。
週五日、毎日事業所に通所出来るかどうか。それは体調や自身の障害に向き合うことが必要で、もし通所を続けることが出来なかったのならば、一体なにが原因なのか。スタッフと一緒に面談をしてそれらを具体化させたり、ビジネスマナーやコミュニケーション力も学び、ストレスを少しでも減らして人と関われるように訓練していくことも、就労移行支援・みらいではやっていた。
どうやらここ、みらい以外にも就労移行支援を行う施設があるようで、その場所場所によってどこに重点を置いているかでカラーが違うらしい。
みらいはどちらかと言えば、コミュニケーションを学ぶ場であった。
元々遥菓は人と関わるのが苦手だ。本音が言えず、無理矢理笑って、周りから好かれようと努力する。しかしそれを続ければ無理が生じて感情が爆発する。
前職の介護だって、なんとなく選んだ大学の先生から勧められるがままに頷いたにすぎず、結局病んでしまった。それは小学校、中学校、高校も同じで、必ずどこかで登校拒否になっては、保健室に通うというのがテンプレートだった。
もし早くからこういう事業所があることを知っていれば、心療内科に通うまでに至らなかったかもしれない。そういう考えはどうしても浮かんでしまうけれど、そこを悔やんだところで後の祭りだ。
とにかく就職をし、現状を打破する。家族に迷惑をかけ続けるわけにもいかない。
あの雪の中でもがき苦しんでいた自分にはもうなりたくない。そんな強い気持ちを持って、みらいに通所し、自分の障害を理解して、自分に合った職業を探して――――いた筈だった。
「田村さんさ、ここでバイトしまセンカ?」
「・・・・・・へ?」
施設長である片岡に呼ばれ、面談室で二人きり。名前を呼ばれた時は彼が面談してくれるなんて初めてだな、なんてぼんやり思っていた。
ここ、みらいに通所を始めてから半年が経った。
時折情緒不安定な時もあるが、通所は続けられている。スタッフ三名とも関係が悪いわけではない。むしろ自分には見えていなかった苦手な箇所を指摘してくれる貴重な相手だ。
しかしこれはどういうことか。
「通っている田村さんも感じてるだろうけど、いまここ、めっちゃくちゃ人不足なんだよ・・・・・・デスヨ」
面談室のテーブルに肘をつき、顎を手のひらに置きながら説明し始める。ここの施設長が元ヤンキーであることは利用者全員が知っていて、敬語が消えることも承知。彼の方がビジネスマナーを学ばなければいけないのでは? という疑問を口にしないのは暗黙の了解だ。
「んでさ、誰かアルバイトに雇えって上からのお達しで、スタッフ会議を行ったところ、田村さんに白羽の矢が立ったっつーわけ」
今度はうんうんと頭を上下に振る。パサパサと動く黒い髪の隙間から見えた耳朶にピアスの穴の後が数個あるのが確認出来た。
「前は介護もやってたわけだし、他の利用者に何で田村さんがここのスタッフになったんだー? って言われても、介護の経験が無いとダメなんですよーって言い訳も出来るしな」
「でも、あの」
「返事は一週間以内でお願いしマス」
突然土下座でもするかのように両手をテーブルについて頭を下げた片岡に、「いや、えっと、頭を上げてください!」と遥菓は慌ててしまう。
「嫌なら嫌だと素直に言ってもらって大丈夫デス。でも、嬉しい返事をお待ちしておりマス」
片言すぎる敬語がいっそ笑えてくる。それを我慢して「片岡さんっ、頭を上げてくださいっ!」と言えば、「おう」とまた頬杖をついて座り直す。え、またこの態度に戻るの? という言葉はきっと彼には届かない。
「まぁ、嬉しい返事は欲しいけど、別に無理する必要はねぇからな。気楽に考えてくれや」
「・・・・・・はい」
両手を膝におき、少し俯きながら遥菓は頷いた。
正直なところ、悪い話ではない。こちらの障害特性を知った上で声を掛けてくれているのだ。感謝すべきだろう。人と関わるのが苦手であっても、弱いところを知ってくれている人たちに囲まれたところで働くのはきっと他のところで働くよりも気持ちが楽に違いない。
ただ問題なのがひとつ。
「田村。なにが不安だ」
俯いた遥菓の顔を覗き込むように、今度はテーブルに顎を置いて片岡が聞いてくる。まるでこちらの心なんざ見透かしていると言わんばかりだ。
「不安とか、そんなこと・・・・・・」
「はいお前の悪いクセー」
笑顔を浮かべながら否定するが、トントンと指先でテーブルを軽く叩きながら言われる。
「無理矢理笑うな。何でも承諾するな。自分を二の次なんかにするんじゃねぇ」
これを他のスタッフ、安堂や長井が言ったのなら分かるが、まさか片岡にそうやって指摘されるとは思わなかった。
遥菓が目を見開いて彼を見れば、フフンと鼻高々な様子でまた頬杖をして笑った。
「お前が人と関わるのが苦手なことくらい知ってんよ。すぐ自分をおろそかにするところもな。それは別に悪いことじゃねぇ。他人からしたら使い勝手のいい存在だし、偽善者ぶれるからな」
でーも、ともう片方の手で先程と同じようにトンと音を立てる。
「それは自分にとって良いことか? あ? 都合の良い存在であることは喜ばしいかよ」
「・・・・・・いいえ」
「ははぁ、本当か? お前、本当に心からそんな自分嫌だーって思ってる?」
「・・・・・・こんな自分は嫌だっていうのはありますよ」
若干唇を尖らせて言えば、「ま、お前がどんな自分を嫌おうが勝手だけどよ」と小さく溜息をついて片岡は続けた。
「他人に優しいだけの自分なんか認めんなよ。相手を傷つけることばっか恐れてたら、何も手に入らねぇかんな」
「分かってます」
「ならいい」
遥菓の返事を信用している雰囲気は微塵もないが、片岡は縦に頷き、頬杖を解く。そしてまた頭を下げた。
「では、お返事をお待ちしておりマス」
「・・・・・・考えて、みます」
もう片岡に頭を上げろなんて言わない。それだけはこのとき一番強く思った。
(人と関わるのが苦手だって知ってるくせに、どうして私に声を掛けるかな)
その帰り道。自転車を漕ぎながら遥菓は唇をへの字にする。
この申し出は大変ありがたい。ありがたいが、スタッフのように利用者と関われる自信がない。あのあと仕事内容は事務だと説明されたけれど、利用者と全く関わらないということは無理だろう。
ここの事業所で行っているトレーニング・・・・・・ネジを組み立てたり、タオルを畳んだりする軽作業などのチェックはきっとすることになるに違いない。他にも問題の丸つけとか、もしかしたら新しく入ってきた利用者にスタッフとして何か質問されるかもしれない。
(出来るのか、私に)
事務職で心配なのは、緊張して上手く喋れなくなる電話応対くらいだ。パソコンスキルは子供の頃から弄っていたおかげか多少は持っているし、もし分からないことがあれば安堂とか、スタッフに教えてもらえばいい。
問題は事務仕事以外の仕事もあるだろうということ。絶対にどこかで人と関わらざるを得ない。しかし誰とも話さず個人で黙々と仕事をこなす職種なんて、工場とかだけだろう。それであっても、同じ職場の人とは挨拶くらい必要だ。
一から関係を構築しなければいけないところに就職するよりも、すでに構築している所に就職した方が絶対に楽。そうに違いない。いや、そうに決まっている。
別に正社員になれと言われたわけではないのだ。もし合わなければスタッフに相談して、新たに就職先を探すのを手伝ってもらえばいい。なにせあそこは就労移行支援所なのだから。
「まぁ、やってみるか」
――――そんな感じで始めたアルバイトだったが。
「はい、藤本さん。全問正解でしたよ」
「ありがとうございます」
「田村さん、お忙しいところすみません。ピッキングのチェックもお願い出来ますか?」
「大丈夫ですよ、戸矢橋さん。そしたらペン持ってそちらに行きますね」
何とか一年以上続けている。
正直、どこが事務職だ! と片岡には文句を言いたい時もあるけれど、なんだかんだで利用者ともコミュニケーションを取ることも、そして事務としての仕事もこなすことが出来ているつもりだ。
給料は安いけれど、変に就職してまた退職するよりもよっぽど良いし、意外と楽しく仕事に打ち込めている。
(悪くない生活、なんだけどなぁ)
それでも、心の中にある冷たい闇が消えることはない。
あの牡丹雪の中、消えてしまいたいと願った気持ちはじくじくと痛みを持ちつつも、それを見ないように蓋をしている。心療内科の薬も飲み続けているし、どれだけ良い方へ変わったといえど、根本的な部分は変わらない。
帰り道に聞こえる、電車の音。錆び付いたレールが雪で隠れることはない。冷たい空気に白い息は出るけれど、あの極寒と比べたらここはやはり暖地だろう。
「今年も、雪は降らないのかな」
雪が降らないことに安堵しているのに、何かを乞うように空を見上げてしまう。
真っ白な銀世界。死にたいと泣き叫んだって誰も助けてはくれない。いや、助けてくれずとも、もう私は牡丹雪の中で佇んでなどいない。それなのにどうしてだろう。
「雪、降るといいなぁ」
あの世界へ――――雪の積もるレールの上へ、誰か背中を押してくれないかと、今でも願っている私がいた。
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