②歯がゆさ

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②歯がゆさ

「んじゃ、朝礼始めマス」  敬語は彼に似合わないと思うようになったのはいつ頃だっただろう。  朝礼の時には何とか敬語でいようと努力しているが、無理しているのがバレバレだ。いや、逆に朝礼の時よりも利用者の前で頑張って敬語で話してほしい――――まぁ、もう全て今更の話だけれど。  各々のスケジュールを確認し、改めて施設長が指示を振る。今日も今日とて仕事がてんこ盛りだ。昨日に出来なかった仕事を今日中に終わらせたいと思っているが、利用者からどれだけ声を掛けられるかで変わってくる。 (どうか平和な一日でありますように)  と、思った矢先に安堂がデスクチェアの背もたれに寄り掛かりながら「片岡さーん」と声を掛けた。 「昨日は金崎さんと同行でしたが、直帰するくらい長引いたんですかー?」 (朝からドンパチするってかい)  一瞬にしてピリついた空気になり、遥菓の前に座る片岡も彼女と同じように背もたれに寄り掛かり、行儀悪く片足を座っているところに乗せた。 「おーおー、長引いたぜ? えらーい市役所さんの話を聞いてたからな」 「それでもそこまで延びますー?」 「いんや? その後には車の中で金崎さんとちょっと話してたんだよ」 「面談だ、面談」と続けると、安堂はムスっとして「こっちの仕事もして欲しいんですけど」と返すが、それは聞こえなかったことにするらしい。片岡は「そういやぁ」と満面の笑みを作って思い出したように言った。 「昨日市役所の近くにあったチーズケーキ屋に寄ってな? 一人ひとつ、ちっちぇえけどケーキ買って来たんだよ。向こうの冷蔵庫に入れてあっから、好きな時に食っとけ」 「あれ? そこって人気がある店ですよね」  それに先に食いついたのは長井で、素早くスマホを取り出しその店を調べたらしい。「ここですか?」と片岡に確認すると、「おーそこそこ」と頷いた。 「えっ、もしかして数量限定のやつ!?」 「それみたいですよ」 「やったー! 先に自分の分選んじゃおー!」  ガタン! と音を立てて立ち上がり、走るようにして休憩室の方へ向かった。一気に機嫌が良くなったようだ。 「おうおう、さっさと選んどけ」  どこか適当に言い、デスクに頬杖をする片岡はもしかしたらこうなることを見越して買って来たのかもしれない。  どこか侮れない人だな、と目の前にいる彼を見ていると、こちらの視線に気付いたようで片岡は「ん? どうした田村」と首を傾げた。 「お前も一緒にケーキ選んでくれば?」 「いえ、私は最後で大丈夫です」 「はー、そこまで良い子ぶらなくていいんだぞ?」 「別に、良い子ぶっているわけじゃないです」 「じゃあ俺は選んでこようかな」  遥菓の隣で話を聞いていた長井が「よいしょ」と、腰に手を当てながら立ち上がる。  彼も甘党だと知っている二人は別に不思議がることなく「はーい」「おう」と返事をし、また顔を向き合わせた。 「ほら、お前も行って来いよ」 「私は帰る時にいただくんでいいんです」 「今でもいいじゃねぇか」 「・・・・・・・・・・・・」  引き下がらないのは元ヤンキーの名残だろうか。いや、この人の性格だろう。 (まぁ、私も大概なんだけどさ)  じゃあお言葉に甘えて見てくるかと立ち上がろうとすれば電話が鳴る。手を伸ばした片岡よりも早く子機を取って応対すれば、知った名前の会社からだった。 「はい、お電話ありがとうございます。就労移行支援・みらいの田村です」 『いつもお世話になっておりますー、ハーブ工房の上杉ですー』 「はい。いつもお世話になっております」  相手が目の前にいるわけではないのに一緒になってお辞儀をする。どうしてもこの癖は直らない。 (あれ、この会社ってこのあいだ就職した先の・・・・・・)  そう思っていると、『片岡さんはいまお手すきでしょうか?』と訊ねられ、「はい、少々お待ちください」と保留音を押した。 「誰?」 「ハーブ工房の上杉さんです」 「・・・・・・来たか」  苦い顔をしながら彼は遥菓から子機を受け取る。そして窓の方へ向きながら「はい、お電話変わりました片岡デス」と例のごとくの片言で話し始めた。 「はい、はい、いえいえ、こちらこそ。はい、そうですか。それは良かったデス」  笑みを作って応対する片岡だが、だんだんその声が低くなっていく。 「はい、えぇ・・・・・・はい」 (もしかして)  それはここ、就労移行支援の一番の難関であるものだ。出来ればこの予想は当って欲しくない。 「なに、誰から掛かって来たんですか?」  ケーキを選び終えたようで、スタッフルームの方に安堂と長井が戻って来る。声のトーンからしていい話では無いことを分かっているのだろう。抑えた声で聞いてきた安堂に、遥菓も小さな声で返した。 「ハーブ工房の上杉さんです。小川さんが就職したところの」 「あー、マジかー」 「そろそろだと思っていましたけど」  長井も溜息をついて首を横に振る。どうやら皆同じ考えのようだ。 「そうなんですね。はい、いや、申し訳ありません。こちらからも連絡を取ってみますので。はい、はい。では十三時に。えぇ、よろしくお願い致します。はい、では失礼します」  ピ、と電子音を鳴らし、子機を戻す。遥菓を含めた三人で片岡を見つめれば、彼は溜息をつきながらうなだれた。 「小川さん、無断欠勤三連チャン目」 「・・・・・・やっぱり」 「だぁー、ダメだったかぁ」 「ですね」  当った予想に遥菓も小さく息を吐く。  就労移行支援は就職だけが目標ではない。就職した後、そこで仕事を続けることが大切だ。たとえ就職が決まりここを退所したとしても三ヶ月は定着という名目で一ヶ月に一回は面談をすることになっている。  どれだけ就職出来ても続かないことが多く、その会社で働き続けられる為にスタッフも先方と話をして、その人の特徴、癖、配慮事項を伝える。そして就職をした利用者には、その会社での注意点やどう自分の気持ちを守っていくか。出来る限りのサポートをするのがこちらの役目だ。  それでも続かない人がどうしても出てきてしまう。悔しいがそれが現実だ。  いま電話で掛かってきた小川は、ここに通所する時にも遅刻や欠席が多く、情緒不安定だった。それでも就労移行支援は二年間、最高でも三年間しか受けられない。小川はもうすぐで二年目も終わりそうだった為、その彼女本人が無理矢理就職したものだった。  中には就職は出来ず、障害者が主として働くA型、B型に入る人もいる。しかしそれは就労移行支援みらいにとって最終手段。出来るだけ就職に結びつけられるよう利用者と向き合う。  どうか就職出来ますように。そのまま定着出来ますように。そう願いながら面談や必要なスキルを身につけられるようにしても、どれだけ寄り添っていても、ダメな時はダメなのだ。  落ち込む暇なんてない。これからどうするか、次の道を一緒に探さなくては。 「小川さんとは連絡が取れ次第、電話越しでもいいから話をしてみっぞ。十三時に先方が話し合いたいらしいから、そこにも行かないと・・・・・・」  片岡はマウスを動かし、カチカチと音を立てる。 「長井さんは面談で、安堂さんは昼一に講座か・・・・・・俺も見学対応入ってんな」 「・・・・・・・・・・・・」  積んだ。まさにこういう時に使う言葉に違いない。こういう時、自分が事務職であるのが憎い。  利用者がしたトレーニングをチェックすることは出来る。だが面談や同行は仕事ではない。それは事務という立ち位置にいるからという理由もあるが、元利用者であった遥菓を慮ってのものだ。  雑談くらいならしてもいいけれど、利用者の深い根の部分の辛さなどを沢山聞くことは、改めて自分の闇と向き合うことに等しい。こちらの精神的体調が崩れないよう、事務――アルバイターと正社員の線引きをされているのだ。まさに配慮点を考慮して、のこと。  けれど遥菓はそれが歯がゆくあった。  現在アルバイトの自分を入れて、スタッフは四人。利用者が多くいるこの事業所はどう考えても人不足。一日のスケジュールがかなりハードだ。  忙しくしているスタッフ、正社員を見ていると自分ももっと何か手伝えないかと考えるも、自分が手を出せる範囲ではない。そもそも遥菓は正社員ではないし、その為に必ず受けなければいけない研修だってやっていない。  ようするにそれらは〝やってはいけないこと〟なのである。 (手伝えたら、いいのに)  それでも思ってしまう、少しでもスタッフの負担を減らすことが出来ないかと。どれだけ事務仕事をやっているとはいえど、自分の価値を未だに見いだせないでいる。  唇を噛み締め俯くようにノートパソコンの画面に出したカレンダーを見る。隙間がないほど予定が書かれたそれが腹立たしい。しかしそんな遥菓とは反対に「うっし」と片岡は顔を上げて手を叩いた。 「安堂、お前が小川さんの担当だったろ。話して、どうにか一緒にハーブ工房の方に行って来い」 「講座は?」  ここで敬称が抜けているとか、敬語は? と途中を遮るものはいない。いわゆるこれは本気モードなのである。 「講座はプリントとか配って対処する。あー、履歴書書かせるのもいいか。そこら辺は長井さんに任せた」 「はいはい。じゃあ面談の前に印刷して皆に配っておきますかね」 「田村はスタッフルームに残って様子見とけ。問題が起きたら俺か長井さんに絶対声掛けろ。面談や見学対応なんて気にしなくていい。自分ひとりでなんとかしようと思うなよ」 「分かりました」  遥菓はそれに頷き返す。 「さーて。今日も一日忙しくなっぞ。安堂、さっそくお前電話しとけ。奥の面談室使っていいから」 「はーい」 「長井さんはプリントの内容、田村に教えといて」 「了解です」 「んじゃ、よろしく」  再度片岡がパン! と手を叩くと、まるでミッションをこなすかのように散っていく。  安堂は子機を片手に面談室へ。長井は何をやるか考える為、スタッフルームの壁際にある棚を確認し始める。遥菓はそのプリントをやっている時いつでも対応出来るように、今日中にしておきたい仕事に取りかかった。  片岡はもう一つの子機を使って、別のところに電話を掛けるようだ。きっと小川の担当先の相談員に欠勤していることを伝えるのだろう。 (今日も一日頑張りますかね)  遥菓は片岡の方を見るようにして窓の外を見る。風が強いのか、ケヤキの木が大きく揺れていた。  この時期は空っ風が強く、電車が停まることも度々ある。ここからでは線路は見えないけれど、なんとなく風に吹かれて冷たくなっているレールを心の中で描き、そしてそれを振り切るように首を振ってパソコンの画面に向き直る。  今は仕事の時間だ。感傷に浸る必要はない。  冷たい根を張る心を飲み込んで、請求業務をするべくカレンダーを閉じた。
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