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~ * ~
ゆっくり目を開ければ、そこは見慣れた光景だった。
はらはらと降る牡丹雪は駅の灯りで輝きながらレールの上へと落ちていく。
〝あの時〟と同じならば電光掲示板に遅延の文字がある筈だ。遥菓は顔を上げてそこを見ると、そこは真っ黒い色をしていて、横へと流れていく文字が一つもない。
記憶とは違うそれの筈なのに、特に気にすることなく視線を前へと戻せば、
「・・・・・・っ」
目の前に知る背中があった。
今はもう捨ててしまったコートと手袋をし、白い息を吐き出す。その姿はどう考えても自分だ。
遥菓は瞠目し、どういうことかと周囲を見渡す。しかし周りには誰もおらず、まるで無人駅になったかのような錯覚を覚える。
「雪、綺麗だよね」
こちらを振り返ることなく、自分はこちらに声を掛けた。
「え、えっと、まぁ、うん」
動揺を隠せずに返事をする。こちらの声は聞こえているのだろうか。もしかしたら独り言だったのかもしれない。
けれど自分は小さく笑って「牡丹雪」と返して来る。
「私は牡丹雪が好き。電灯で輝く姿とか、雪が騒音を吸って静寂な世界を生んでくれるところか、まるで世界にひとりぼっちになったみたいで、安心する」
彼女の言葉に、「うん」と頷き、夜空を見上げる。大きくしっとりとした雪は静寂を纏い、まるで時間が止まっているかのように静かなのに、降り続けるそれが時が止まっていないことを教えてくれている。
「ねぇ、貴方はいま、元気にしてるの?」
過去の自分が未来の自分に問う。
ポケットに手を入れて白い息を吐いた彼女の表情は分からない。でも何となく想像出来て、遥菓は「どうかな」と小さな声で自嘲的な笑みを零した。
「昔よりは人と関われるようになった。まぁ神経ガリガリ削られるけどね。それでも昔の自分よりは息を吸うことが苦しくなくなったよ」
「でもまぁ」と続ける。
「心の根っこの部分は何も変わらない。今だって私は貴方のようにここに立ったまま」
「・・・・・・そっか」
ほっと安堵したような、けれどどこか諦めるかのような声音。もし目の前にいた人が利用者だったら、もう少しマシな言葉を返しただろうか。
大丈夫だよと、抱きしめてあげられたのかもしれない。
「私はいつまで経っても私のままなんだね」
「そうだね」
「生きてること、辛くない?」
「辛いよ」
声が少し震える。
「昔よりも変わった。環境も生き方も。呼吸だってしやすくなったのに、どうしてかな。すごく胸が苦しくなる時があるんだ。悲しくて、辛くて、助けて欲しくて、認めて欲しくて・・・・・・。もしかしたら貴方よりも貪欲になっちゃったのかも」
就労移行支援に通うようになり、そこでアルバイトをすることになって、いつでも話しを聞いてくれるスタッフという存在が出来た。
信用していないわけじゃない。それでも自分からSOSを出すことが出来ないでいるなんて、スタッフの好意をムダにしているのかもしれない。
「それでも、いま私がいる世界は悪くないよ」
「辛いのに? 怖いのに?」
「・・・・・・うん」
「何が貴方をそうさせたの?」
「んー、なんだろうね」
寒さを感じない冬空の下で、遥菓は肩を揺らして宙に息を吹きかけた。
「時間と私の運が、背中を押してくれたのかも」
視界には入れてないけれど、目の前にはレールが綺麗に敷かれているのだろう。今もそこを求めてやまないが、それでもあの頃とは違う世界を生きていると自信を持って言える。
「へぇ、良かったね。まだ私の背中は誰も押してくれないんだ」
ずっとずっと待ってるのにと色の無い声で言う言葉に、遥菓はきゅっと下唇を噛む。ゆっくりと鼻で深呼吸をし、少しだけ身体を震わせながら聞いた。
「私が、貴方の背中を押してあげようか?」
誰も助けてくれない。苦しみから解放されない。そんな貴方を助ける方法は今もひとつしか思いつかない。
「それしか出来なくてごめん」
「そんな謝らないでよ」
目の前の彼女は少し笑って、そして「うん」と嬉しそうな声音で頷いた。
「私の背中、押してくれるかな」
「・・・・・・それ以外に、何か私に出来ることはないの?」
「ないよ」
キッパリと返される。
「貴方なら分かるでしょ。いま私が何を一番望んでいるのか」
ひとりぼっちの世界に安心してしまうこんな私に、居場所なんかない。
「私はもう、疲れちゃったから」
「・・・・・・そっ、か」
そうだよね、と遥菓は腕を伸ばす。
触れたコートはひんやりとしていて、けれどもこもこしているそれは彼女を寒さから守ってくれているというのに、心はどこまでも冷たくて、悲しみを携えている。
あの頃、誰も押してくれなかった背中を少しだけ撫で、「頑張ったね」と無意識に言葉が転がり落ちた。
「ゆっくり、休んでいいよ」
「うん」
遥菓はそっと、けれど力強く過去の自分の背中を押した。
「ありがとう」
たたらを踏みつつもバランスを取ろうとはしない。駅から足が離れ、宙を舞う。
「ねぇ」
過去の私がくるりと周り、私を見た。
恍惚な笑みをしている彼女が腕を伸ばし、力強くこちらの腕を掴んだ。
「おいで」
「ちょ、わっ!」
止めることなく引き寄せられ、遥菓自身も宙に浮く。
視界にあるのは満足げな自分と、ずっと触れることの出来なかったレール。だんだん近くなるそれにドクリと強く脈が跳ねた。
「私を置いて、ここから逃げるなんて許さない」
雪が降る世界に、声も落ちる。
ハッとした時にはいつのまにか電車がこちらに向かって、猛スピードで駅に入ってくるところだった。
ガタンゴトンという雑音は牡丹雪にも消せなくて、それなのに彼女の言葉だけはハッキリと聞こえる。
「大丈夫。大丈夫だよ、私」
まるでそれは、
「貴方はここからずっと」
呪いのように、
「出られないから」
心を焼いた。
ブレーキのかん高い音。ぶつかる前の最後に見た遥菓の視線の先には、先程まで点いていなかった電光掲示板が、『人身事故』という言葉を流していた。
「――――っ!」
ビクンと身体が跳ね、目が覚める。
呼吸は浅く、全力疾走したかのようだ。
「は、ぁ・・・・・・」
遥菓は腕を上げ、汗ばんでいる額に手を置いた。
「夢、か」
耳の奥にはまるで耳鳴りのように電車のブレーキ音が響いていて、遥菓は唇を噛み締める。胸を打つ忙しい鼓動を感じながらゆっくり鼻で深呼吸をし、ひとつ瞬きをした。すると一粒の涙が零れ落ちていく。
「こんな夢、最低」
未だに震えている身体を叱咤し、毛布を蹴り落とすかのようにベッドから起き上がった。
朝の光を浴び、カーテンが微かに輝いて部屋を少しだけ明るくさせる。外からはすずめの鳴く声も響いていて、なんとも平和な朝なんだろう。
それなのになんで私はこんなにも苦しんでいるんだろう。
「・・・・・・大丈夫だよ、私」
過去の私に言われた台詞を今度は現在(いま)の私が口にする。
ぎゅっと自身を抱きしめて。
「私はまだ、変われてないから」
笑いながら頬を濡らした。
「遥菓、起きてるー?」
そのまま固まっていると、コンコンと自室のドアがノックされる。
「そろそろ朝の薬、飲んどいた方がいいんじゃない?」
「はーい、いま行くー」
母の言葉に遥菓は返事をしたその声は、きっといつもと変わらない。
頬に流れていた涙を手のひらで適当に拭き、ベッドから下りて立ち上がる。
輝くカーテンは開ける気にならず、そのままにした状態で、自室から出て行った。
「おはよう、遥菓」
「おはよ、お父さん」
階段を下りて行けば、リビングでコーヒーを飲んでいる父がいた。
仕事は基本両親と自分は土日休みのため、土曜日の今日は休みである。ゆっくりと過ごす新聞を広げている姿は、遥菓が一人暮らしをする前からずっと変わらない。
「遥菓、食パンでいいー?」
キッチンの方から母の声が響き、「あ、私自分でバターぬるよ」と返しながらパタパタとスリッパの音を響かせる。
「じゃあお願いね」と、おかわりのコーヒーをカップに注いでいる母と顔を合わせ、「はーい」と笑った――――どうやら泣いていたことはバレていないようだ。
子供の時は泣けばすぐ目が腫れていたのだが、大人になってからはあまり目が腫れなくなった気がする。
(うまく笑えてる、よね)
あとは自分の態度に気をつければ大丈夫だろう。遥菓は冷蔵庫からバターを取り出し、厚みのある食パンにたっぷりそれをぬった。
「最近会社の方はどうだ?」
焼いた食パンをリビングで囓っていると、父が新聞を見ながら遥菓に問い掛けた。
もぐもぐと口を動かし、中のパンを飲み込んでから「まぁまぁ」と答える。
「事務仕事は一年も経ったか慣れたかな。でもまだ利用者と接する時の線引きが上手く出来ない」
「前に面談・・・・・・だっけ? それで怒られたって言ってたけど、それ関係?」
母にも聞かれ、「うん」と返した。
「そんな感じ。私はほら、事務として会社と契約してるから、利用者と三十分以上お話したらダメなんだよね。それなのに時間とかすっかり忘れて話しちゃう」
「それは気をつけなくちゃいけないぞ、遥菓」
手に持っていたコーヒーカップをローテーブルの上に置き、新聞から遥菓の方へと視線を向けた。
「上司にもそう言われてるんなら、忘れずにちゃんと守らないと」
「んー」
再びパンに齧り付き、食べ始める。
確かに父の言う通りだが、なんとなく釈然としないのは上司があの片岡だからだろうか。
「遥菓はさ、利用者の気持ちとか分かっちゃうから、どうしても話が長くなっちゃうんだもんね」
母がおかわりのコーヒーに息を吹きかけ、少しだけそれを飲む。
遥菓は目の前に座っている母を見ながら声に出さないで頷くと、父が苦笑した。
「そうだなー。遥菓も利用者と同じように辛いものを経験してるから、なんとかしてあげたくなるんだろうなー」
「まぁそうなんだけど、上手くアドバイスとかしてあげられないし。実際どうにか出来るのは本人だけだからね」
「それでも共感してもらえるのは嬉しいことだと思うよ」
「俺もそう思う」
斜め横に座る父も母の言葉に頷く。
「人と関わらないといけないから気持ち的に重くなったり、ストレスが溜まったりするだろうけど、お前には合ってる仕事だと思うぞ」
「疲れてても一生懸命しちゃうのは心配だけどね」
「・・・・・・・・・・・・」
また一口噛む。沢山ぬったバターがとろりとパン生地を濡らし、口いっぱいに甘さが広がる。
(まぁ確かに)
自分はいまやっている仕事が嫌だとは思わない。一年以上続けられているのもあそこで働くのも悪くないと思っているからだろう。
誰かの辛さを柔らかくしたい。一緒に悩んで、それでも負けじと前を向く。少しでもこの世界で息がしやすいようになれたらと願わずにはいられない。
「天職、かな」
ふと昨日片岡の言葉を思い出し口にする。すると両親はキョトンとした顔をした後に、クスクスと笑った。
「まぁそうだな。もしかしたら利用者からしたら天職だと思うかもな」
「どういうこと?」
「遥菓がいてくれて良かったと利用者が思ってるってこと」
「えー・・・・・・そんなことないよ」
最後の一口を大きく開け、残りのパンを放り込む。
もぐもぐと動かし、牛乳を飲んでゴクンと音を鳴らして飲み込んだ。
「でも、もし本当に利用者の役に立ててるんなら、その、えっと・・・・・・」
遥菓は一度躊躇してから、それでも言葉にして聞く。
「正社員とかも、考えていいのかな」
「・・・・・・・・・・・・」
訊ねたそれに、二人は驚いたように目を見開いて沈黙する。
やっぱり聞かなきゃ良かったと後悔するが、言ってしまったものは仕方が無い。そのまま両親の言葉を待っていると、先に口を開いたのは母だった。
「遥菓が本当にやりたいのなら応援するけど、無理はして欲しくないなぁ」
「アルバイトと正社員の違いは、そこに責任が生じるかどうかだ。焦って決めることでもないし、もう少しアルバイトとして働きながら気持ちの面も含めて落ち着いてからでいいんじゃないか?」
「・・・・・・うん、そうだね」
早く正社員になりたいわけではない。ただ利用者と話すことが出来ればという思いと、もっとスタッフの役に立てるようになりたいからだ。
だが両親の言葉通り、無理をしてまた前みたいに病んでしまったら意味がないし、責任感を背負う覚悟が出来ていなければ役に立つどころか、どこかでミスをして迷惑を掛けるかもしれない。
「もう少し、考える」
遥菓がそう頷くと二人はホッと息を吐き出し、「そうしなさい」と優しく言ってくれた。
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