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0B. 憑
淳がその幽霊にとり憑かれたのは、一年前の夏のことだった。
「……ねえ、じゅんじゅん。聞いた?アレ。」
楽屋でギターをしまう淳の横で、リクが耳打ちをした。古い木材と汗の匂いの漂う小さな部屋だった。
「Eclipseのやつら……アメリカのレーベルでデビューするんだってよ」
ステージではその『Eclipse』がまさにリハーサルをしているところだ。コウジの弾く艶っぽいギターの音が、ここまで聴こえてくる。
「おー、聞いた聞いた。すげーよな。マジでうらやまし〜」
「そうじゃなくてさ。やっぱ、コウジって取り憑かれたんかね?」
淳の手が止まる。
「だってさ、コウジのギター、シェクターじゃん。シェクター弾きにだけ取り憑くんでしょ?あの幽霊」
「お前ソレ、本気で言ってんの?」
有名な噂だった。
ライブハウス『7days wonder』に出る、ギタリストの幽霊。
姿は見えないが、気まぐれにギタリストに取り憑いては、そいつを「ギターの天才」に変えてしまうのだという。ただし、シェクターのギターを弾くヤツ限定で。
実際、10年以上前にこのあたりで事故があって、関係者が一人死んでいる。そのせいで、バンドマンの間やネットの掲示板で、ずっと語り継がれてきた噂だった。
「いいな〜。ベースにも取り憑く幽霊、いないかな?」
「ばか。幽霊なんていねーよ」
「ふ〜んだ。じゅんじゅんはイイよね。幽霊なんかに頼まなくても、ギターめちゃ上手だもんね。
あぁ〜俺もいきなりスラップ上手にならんかな〜〜」
「そーゆーとこだって。そんなん言ってる暇あったら練習しろよ」
そう言ってギターケースを持って立ち上がる。うしろから「塩対応!」という声がした。
バカバカしい話だと思った。噂そのものについてもそうだが、もし仮に本当だったとしても、取り憑かれたぐらいで急に上手くなるなんて、そんな演奏には何の価値もない。死ぬほど練習して、少しずつ音が磨かれ、技術が血肉になっていく。それが淳の信条だ。淳は昔から、ギターに関しては体育会系だった。
楽屋を出るとすぐ、シンバルの音が淳の耳奥を圧迫した。と共に、バーカウンターにアルバイトの智浩の姿を見つける。彼はひとりで酒の準備をしていた。ちょうど、淳たちに背中を向けて屈んだところだった。
――もし噂が本当なら、と思うことはあった。
淳はその背中をじっと見つめた。
白いシャツが、彼の背中のラインをくっきりと浮かびあがらせている。端整で、しなやかで、どことなく色気のある背中だった。
背中だけじゃない。酒を作るそのすらりとした手指も、唇から溢れる掠れた声も、何もかもが、淳にとっては特別だった。
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