1B. おつかれバーテンダー

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『――ホテル行こうよ』  客の情欲が自分のその影とやらから来るのだとしたら、絶望的だ、と思った。  智浩はセックスが嫌いだった。自ら望んで寝たのは、12年前に死んだ恋人の薫で最後だった。それ以降、他人と寝ることが嫌になった。  別に不能になったわけではない。だが請われて義務のようにこなす行為は、退屈を通り越して苦痛だった。だから誘われることも嫌いだったし、それを断る際の精神的消耗は本当に無駄だと思っていた。 「――それよりさ、俺はお前のその顔が心配だね。いっつもポーカーフェイスっていうかさ。読めない笑顔してんじゃん。」  南陽が言いながら店のBGMを切る。『Roundabout』が途中で止まり、深い静寂があたりを包んだ。  薄暗い部屋の中で、南陽は智浩に向き合った。しばらく真剣な顔で睨んだかと思うと、突然頬を鷲掴みにしてくる。 「表情筋!」  掴んだ頬をムニムニと動かして、笑った。 「ま、あんまり根詰めるなよ。」  そう言って、店の裏口を開けた。  熱帯夜だった。  ビルやマンションが黒々としてひしめき合い、あたりに熱気を閉じ込めている。今吐いた空気も明日まで残っているんじゃないかとすら思えるほど、つくづく風通しの悪い街だった。  智浩は店の近くに停めていたビアンキのクロスバイクの鍵を解いた。  別に店から自分のアパートへは歩いてでも帰れる。自転車は単純に、客よけだった。歩いて帰ると、待ち伏せされることが多い。以前何度かトラブルになり、自転車を買って解決することにした。  その経緯については南陽も知っている。南陽は智浩を心配して、店から自転車までいつも付き添ってくれている。  智浩は南陽に頭が上がらなかった。自転車の件だけではない。大昔にホテルバーテンダーの先輩と後輩だった頃から今に至るまで、数々の難所を南陽に助けられながらくぐってきた。南陽がいなければ、今頃智浩はどうなっていたかわからない。  特に、薫を事故で失ったあの冬は。  ふと、ポケットに入れた携帯がなる。淳からだった。
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