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『トモ。今何してんの?』
いつも通りぶっきらぼうな物言いだった。だが、どこか元気がない。
「店しめたとこ。どうしたの?」
『ちょっとさ。付き合ってよ。今からそっち行くから』
隣で南陽が「やばいやつ?」と小声で囁く。智浩は苦笑いをしながら顔の前で手を振って、否定した。
淳はこうして真夜中に突然、智浩を訪ねることがあった。それが許されるのは、彼が特別な存在だからである。唯一、頼まれれば寝る、特別な相手。
南陽と別れ、クロスバイクを五分も走らせると、すぐに智浩のアパートが見えた。
――昼食の食器がまだ流しにあったな。淳が来るなら少し片付けておかなければ。それにベッドの準備も必要だ。浴室は綺麗にしてあっただろうか。
あれこれ考えながら走っていたのがよくなかったのかもしれない。気づくと智浩は、いつもは決して通らない道を通っていた。
工事現場の横だった。古い一軒家を取り壊して、アパートを作っている。すでに鉄骨は組み終わっていて、そのアパートが三階建てになることが簡単に予想できた。
智浩はしまったと思った。
見てはいけない。
ふと、鉄骨を保護する灰色のシートが、風で膨らむ。
その音に、智浩は反射的に顔を上げてしまう。
途端に血の気が引くのを感じた。
――落ちてくる。
思わず息を止める。
見開いた目に、鉄骨が飛び込んでくる。
だが、頭上は水を打ったように静かだった。相変わらず灰色のシートは揺れるばかりで、鉄骨はびくともしない。
智浩は肩で大きく息をしながら自転車を降り、その場に座り込んだ。心臓が強くまたたいて、苦しい。
こういう、「何かが落ちてくるかもしれないという状況」が異常に怖くなったのは、12年前からだった。
恋人の薫が、工事現場の資材落下事故に巻き込まれて死んだことに端を発しているのだと思う。長い通院によって他のあらゆる障害は寛解したのに、これだけは残り続けていた。
その恐怖はふとした時に頭をもたげる。
例えばこうして近所の工事現場を通るとき。カフェの照明が細いワイヤーで吊るされていたとき。ビルの屋上に、人影が見えたとき。
そういったものごとを意識した瞬間、智浩は震えて動けなくなるのだ。
そんなことは起こり得ないと頭ではわかっているのに、体は彼の言うことを聞かなかった。
四十手前にもなって、恐怖一つ手懐けられない。智浩はそういう自分が、情けなくてみっともなくて、死ぬほど嫌いだった。
嫌悪感とともに呼吸を必死で整えているとき、背後から声がした。
「トモ、」
暗闇の中で、小柄な狼のような男がひとり立っていた。淳だった。智浩に向かって片手をひらひらさせている。
「だいじょーぶ?」
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