彼女は、俺が殺した

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 目を覚ました時、自分しかいない自分の部屋に救急車を呼ぶ判断が脳裏をわずかに掠めることもないほどに明らかな死体が横たわっていたとしたら、もっとも怪しいのは自分自身である。そんなの俺だって分かっているが、自覚がない以上、そう簡単には信じられないものだ。  なんで自覚がないのかは簡単に説明が付く。意識が朦朧として、記憶が曖昧だからだ。こうやって物事を考えるのも、やっとやっとで、いつ倒れてもおかしくないだろうな、と思っていた。  ただこのままでは、まずい、という焦りはしっかりとあり、すくなくともこの死体が誰で、どうして死んだのかは、はっきりさせないといけない。いや、それよりも何よりも優先すべきなのは、俺が誰なのかをはっきりさせることだ。  まずここは俺の部屋だ。  何故、それをすぐに認識できたのかは俺にも分からないが、染みついた懐かしさ、というのは意外に根強く残っているのかもしれない。この事実は、一時的な混乱で記憶を失くしているだけで、ぐちゃぐちゃになった記憶の糸がぴんと真っ直ぐにのびるのは意外と早いかもしれない、と俺に希望的な感情を抱かせてくれた。  この死体は誰だ……、  というのは気になって仕方ないが、いったん俺は見ない振りをすることにした。かすかに彼女……、そう死体は女性だ。かすかにでも彼女が救われる可能性があるなら、別の判断を採ったかもしれないが、彼女は確実に死んでいる。客観的に死体を見ることができる時点で、やはり俺は怪しい、と感じるが、そんなことはいま考えても仕方ない。状況を整理できていない非日常のような光景が逆説的に俺を冷静にさせてくれているのかもしれない。  ただどうしてもそこにいる限り、視界には入ってきて、眼を開いたままの女の死体と事あるごとに視線が合い、そのたびに俺は不安を抱いた。  俺の名前は……?  ここは俺の部屋なんだから、俺に関する情報はいくらでもあるはずだ。とりあえず近くにあった机の引き出しを上から順に開けてみることにした。一番上の引き出しには鉛筆やシャープペン、消しゴム、定規、ハサミ……、と、記憶の糸をたぐりたい俺の目的には関係ないものがずらりと並んでいて、がっかりしたまま二番目の引き出しへと行くと、これが当たりだった。  書類が乱雑に入っていて、その中から適当な封筒を取り出す。あて名を見れば、俺の名前が分かる。俺が選んだのは銀行から郵送されてきている親展の文字が入った水色の封筒で、こういう類のものなら偶然別の人間のものが紛れ込んでいた、という可能性は低いだろう。  高村司郎。タカムラシロウ、と書かれている。  これが俺の名前なのか……、それを見た瞬間、ぱっと自分について思い出す期待もあったのだが、残念な結果に終わってしまった。  ただ名前を知っただけでも、一歩前進だ。俺は、タカムラシロウ。  じゃあ名前を知ったところで、次は状況確認をしなければいけない。まず俺が、何故、眠っていたか、あるいは意識を失っていたか。死体のすぐそばで意識を失うとしたら、何が考えられるだろう。一番に思い付くのは、死体を見た驚きによって意識を失ってしまったパターンがある。俺が第一発見者である場合は、この可能性が高い。ただどうも俺はこの死体の発見者ではなさそうなので、この考えは却下だ。  何故なら俺の服には飛び散って付着したような血の跡がびっしりとこびりついている。  これが返り血である可能性は高く、そうであるならば、やはりこの状況は俺を犯人だと指摘しているようにも見える。それでもまだ考える余地は残っているはずだ。たとえば俺たちふたりは誰かに殺されそうになり、ふたりの内、俺のみが生き残った、という可能性だってないわけじゃない。殺人鬼が俺も殺そうとした際、突然の訪問者に邪魔されて逃げ出した、とかだ。インターフォンの音が急に鳴ったら慌ててベランダから逃げることだってあるかもしれない。  あるいは俺が犯人である場合に関しても、明確な殺意を持った殺人だけでなく、相手に襲われた際に身を守るための正当防衛も考えられる。他には、これはさすがに無理があるかなと思わないでもないが、なんらかの事故によって起こった悲劇という可能性だって、まだ捨て去るには早すぎる。  鏡でまず俺自身の顔を確認すれば、記憶が戻りやすくなるだろうか。だが身近に鏡は見当たらない。いまのところ分かる俺の身体的特徴は、身長が低いことと髪が長いことくらいだ。  ……いや、駄目だ。よく分からない。  理由はまったく頭に浮かばないのだが、俺の心の奥底にある部分が、行くな、と部屋から別の場所に移動することへの危険を告げていた。  この正体がはっきりするまでは部屋からは出るわけにはいかない。  現状把握の続きを優先しよう。  死体に対するショック以外で、意識を失った理由について、もうひとつ思い付く考えはあった。こちらのほうが、ずっと俺の中で本命だ。  死体のそばに錠剤が入っていたと思わしき、空の容器がある。その容器には薬の名前がアルファベットで綴られている。聞き馴染みのない薬品名だが、それはそもそも当然のことだ。一般的に有名なものでもない限り、俺はほとんどの記憶がないのだから、どんな薬品名を目にしていたとしても、同じ感想を抱いていただろう。  机の上には、パソコンが置いてある。電源は消えてはおらず、スリープ状態になっているだけだった。俺は検索サイトを開いたところで、パソコンの使い方は何も忘れていないと気付く。さっきの薬の例をひとつ取っても、一般的な知識のようなものも記憶として残っているみたいだ。だとしたらこれは一時的に自分や自分の周囲のことだけが分からなくなっている、と判断しても良さそうだ。というより願望としても、そちらを支持したい。  記憶が戻れば戻ったで、記憶なんて戻らなければ良かった、と思うほど、残酷な真実と出くわすかもしれないが、すくなくともいまの想いとしては、この宙ぶらりんな状態のほうが耐えられない。  検索サイトの履歴から何か情報を得られるかもしれない、と履歴を確認したが、旅行や観光に関するサイトばかりだった。何か旅行を計画していたのだろうか。これだけでは何も分からない。  俺はホンフェタミンと検索サイトに入力してみた。  容器の綴りに書いてある文字をそのまま片仮名に直しただけだ。違法の薬だったらどうしよう、と不安もあったが、そんなことはなく、医師が処方する正規の医薬品で間違いなさそうだった。目視するだけで三、四十粒はありそうなほど容器の残骸が死体のそばに転がっていて、これを一気に飲み干したのか、と思うと、背筋が冷えてしまう。  つまり俺は溜まった睡眠薬を大量に摂取して昏倒し、この記憶の曖昧な状態が引き起こされてしまったのだろうか。  自殺……?  ただ自殺という考えもしっくりとこない。この死体の状態から考えて、計画的な殺人だったという印象は持てない。きっと俺は法医学者でもなんでもないだろう。なので、絶対、とは言えないが、ただ素人目にも、その判断は信じても良さそうな様子の死体だ。  それに、もし計画的な殺人で、自殺という選択も事前に織り込んでの行動だったとしたら、こんなにも確実性のない自殺方法を選ぶだろうか。実際に俺は死んでいない。どうも腑に落ちない。突発的な殺人だったとしたら、致死にいたる量の薬を医師に嘘を吐きながらせっせと溜めていた、という考えも成り立たない。偶然に溜まった睡眠薬で、じゃあこれで死のう、とはならないだろうし、違法で手に入れるならば、もっと自殺に向くものはいくらでもあるはずだ。  殺したのが俺か、俺ではない別人か、という判断はいったん保留しておくにしても、俺が意識を失った理由として可能性が一番高いのは、記憶を失う前の俺が、この死体の存在をきっかけに、自棄になって一気に飲み干した、というものだろう。  それが自殺願望とどこか違うのか、と言われれば、困ってしまうところだが、死ぬ気はないが死んでもいいや、という考えには、やはり微妙に違いがある。  合っているかどうかは分からないが、とりあえず意識を失っていたことに関しては、それなりに納得のいく答えが出た。  次は、この死体について考えなければいけない。  素人目でも分かるほど、計画性のない殺され方をした女性の死体についてだ。  ここまではそのことに関して目を逸らし続けてきたが、思考の過程で、やはり避けて通るわけにはいかなさそうだ。  その女性は、裸だった。
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