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 西(にし)一平(いっぺい)の肩越しに、七星(ななほし)(りつ)がぎょろりとした目を覗かせた。人差し指を突き出した彼の右手が、一平の震える肩を超えてぬるりと前に伸びる。  「あれ、視える?」  「…はい、もし律さんが仰っているのが、『あれ』のことなら」  一平の右手が律の右手の下に伸び、同じ目標を指さした。  繁華街の路地裏、昨夜の煙草と酒の匂いが残ったままの空気の奥に、こちらを向いて首を傾げている青年がいた。詰襟を着た青年は、呼吸に合わせて肩を上下させる他は動かなかった。動かない確かな理由は分からないが、足首から下がコンクリートの下に埋まっていることは要因の一つであるようだった。  「ま、あれしかないよね。じゃあ、中身は視える?」  律は顎を一平の肩に乗せて問うた。その重みのおかげか、人間と分かっているものの温もりのおかげか、一平の震えは幾分か収まった。一平は目に力を入れつつ、ピントを合わせるようにその目を細めた。  青年には「目」があった。律から教わったことを思い出し、暗がりに浮かぶそのふたつの「目」に集中する。一平の額に一筋の脂汗が伝った頃、青年の中身に焦点が合った。  そこには穴があった。ただの穴である。その奥からは、何も感じられない。穴の向こう側に進めと言われても、二つ返事で一歩踏み出せるほどに、その穴からは全く何も感じられない。むしろ、その先に何があるのか気になってしまう。  「はーい、戻ってきてね」  不意に律の声が右耳の鼓膜を震わせた。声と同時に、左肩をぐいと引かれた。はっとした一平は、自身の呼吸が荒くなっていること、そして先程より右足が半歩程度前に位置していることに気付いた。不安と恐怖を漂わせた一平の目を見た律は、にこっと真っ白な歯を剥き出して笑った。  「視えたみたいだね、優秀優秀」  律は一平の左肩を掴んでいた手の力を緩め、その肩を優しく叩く。そして一平に端に寄って自分を見ているように指示した。  「彼はね、なんも分かっちゃないの。だから無為にいろんな人をここに呼んじゃうわけ。分かりたいんだよねえ、人が来れば分かるようになるって思ってるんだねえ。三人寄れば文殊の知恵って、そういうことじゃないんだけど」  一平に話しているのか独り言なのか、微妙な声量と速度で律は呟くと、腰に巻いたポシェットから小さな音叉のようなものを取り出した。そして一平の方を向き、見ててね、と言うように微笑んでその音叉をちらちらと振った。  律はその音叉を雑居ビルの外壁に取り付けられた室外機に叩きつけた。音叉と室外機がぶつかる音以外、何も鳴っていない。しかし、確実に律の手にした音叉は振動し、ふたりと青年の間の空気を波打たせていた。律にはその波が視えていた。一平も同様である。律がその波を見極め、言葉を丁寧に乗せてゆく。  『君は ここで 死んだ  男 四人 殴る 蹴られ  君は 帰れ ここは 違う 君は 向こう』  最後の言葉を吐くと同時に、律は音叉を持っていない方の手で空を示した。波が狭い路地に広がり、反射して青年のもとに集まる。律の言葉の乗った波が届く毎に青年は首を傾げたまま頷いた。一平には、それが長いこと油を差していなかった接続部分がぎこちなく動いている機械のように見えた。  青年の身体に届いた波は、やがて彼の言葉を乗せてこちらへ返ってきた。  【そうか いたい りゆう わかる  ごめん なさい】  その言葉を聞いた律は微笑んだ。そのまま青年から目を逸らさず、ゆっくりとしゃがむ。じめっとした空気の中、ぽっかり浮かんだ青年の両目が、律の動きを追った。律は音叉を高く振り上げ、一気にコンクリートに叩きつけた。地面が波打ち、その波が青年の足元を文字通り掬う。革靴を履いた青年の足が露わになったかと思うと、そのまま青年は消失した。  「はい、完了」  律は立ち上がり、ズボンの膝を手で払ってふうっと息を吐いた。くるりと一平の方を向くと、笑って首を傾げた。  「どうだった?初めての実地演習は」  「意外とあっさりしてたな、というのが本音です」  その返答に律は声を上げて笑った。「素直だね君は」言いながら律は、未だ青年が立っていた場所から目を離せずにいる一平の肩を掴むと、ぐいと通りの方へ身体を向けさせた。  「同情も長居も無用だよ、一平。振り返りは帰りながらでもできるだろ」  一平は頷くと、促されるまま通りの方へ出た。春の日差しはこんなにも眩しかっただろうか、と彼は身体に波の余韻を感じながらぼんやりと考えた。  律の運転する隣で、一平はコンビニで買ったサイダーをちびちび啜っていた。喉よりも口の方が渇いていた。急ブレーキに前のめりになった一平を見やって、律はドリンクホルダーに刺さったいちごミルクの蓋をおもむろに開け、三回ほど喉を鳴らした。  「なに、さっきからぼんやりしちゃってさ」  その言葉に、久しぶりに一平は律の顔を見た。  一重であるにもかかわらず大きく開いた目に毅然と存在する、瞳孔との境目が分からないほどに真っ黒な黒目には、一度捉えられたら逃げられない得も言われぬ力が感じられる。その黒目に負けず劣らず黒く太い眉がその力を確固たるものとしていた。逞しさと繊細さを兼ね備えた高い鼻梁の下にある、深紅の口紅を塗った唇が黄味の強い白い肌によく映えている。話しているとき、目を合わせさえしていなければ、滑らかに動くその唇に注目してしまう。  「すみません、なんだか…現実味があまり感じられなくて」  あそー、と、律はあまり気にしていないようである。そのまま青に変わった信号を確認するとアクセルを踏む。一平の身体が抵抗できない物理法則によってぐんと後ろに引っ張られた。律は再び一平の方に顔を向けた。  「みんな初めはそんなもんだよ。俺も…あ、俺はそうでもなかったけど」  フォローにならないことに気付いた律は、声を上げて笑った。それでも一平は、彼の華やかな笑い声とそれに合わせて揺れる完璧な金髪に心の靄が晴れていく感覚を覚えた。  「でも、資料だけ読んでるよりはずっと現実的に感じられました。ありがとうございます」  一平の感謝の言葉に、律は頷きつつもきょとんとして首を傾げた。  「んー、まあ俺は一平の教育係だからね。新人クンとは適当な時期に実地演習しないとだから」  一平は笑って肯定の意を示した。ふと視線を戻すと、車の前を野良猫が足早に横切ろうとしていた。  「律さん前!」「合点承知」  一平の絶叫に律は真顔になってブレーキを踏んだ。シートベルトが二人の肩に食い込み、フロントガラスに突っ込ませまいとした。車が完全に止まると、すかさず一平が前のめりになって外の様子を窺った。猫は何食わぬ顔で反対側の通りに歩いていっていた。律はシートに身を預けたまま、一平に何があったのか訊ねた。猫がいたのだ、と答えるとふうん、と素っ気なく頷き、また車を発進させた。  「…一平は人以外にも優しいんだねえ」  にこにこ微笑む律に、今度は一平が首を傾げた。  「そうですかね…でもたぶん、猫じゃなくてボールだったとしても叫んでたと思います」「ああ、反射的にね」  頷く一平を横目に、律は努めてしばらくは微笑んでいようと決めた。  ――なんだ、別にいいのに  猫がいた、と一平が答えたとき、そう言おうとした。喉元まで出かかった「失言」を瞬時に飲み込むことは、律にはもう慣れたものだった。しかし、少なくとも今は、一平の前で気を抜くわけにはいかない。幾度となく上官に注意された急発進・急ブレーキ・急ハンドルよりも、律はそちらの方が余程気を遣わなければならないことだと感じていた。
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