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 庁舎に帰ると、車から降りてきた二人とすれ違った壮年の事務官が舌打ちをした。  「七星、貴様が入れたのか」  「そうですけど、何すか」  事務官は分かりやすく斜めに車庫入れされた軽自動車を見てあからさまに顔をしかめる。  「いつまで経っても下手糞だな、どうせ運転だって相変わらずなんだろ。新人に同情するよ」「車だけにですか」  律は歯を見せて笑うが、目は一切笑っていなかった。彼から溢れる不穏な気と、事務官からの憐憫の視線に挟まれた一平は、ぎこちなく笑ってごまかすことしかできなかった。  「車庫入れくらいまともにやれ、戻すのは俺なんだから」  律の返しを無視した事務官は、やたら長い溜め息を吐いて言った。  「いいじゃないすか、貴方それで給料もらってんでしょ?そんくらいしてくださいよ」  律は抱えたレジ袋の中身を確認しながら、さらりと言葉を吐く。事務官のいきり立った目が自身の方を挑発的に見る律を捉えた。一平は咄嗟に律の肩を掴み、半ば引きずるようにして彼と事務官との距離を離した。  「すみません、もう戻りますから…」  事務官は一平には目もくれず、律を睨みつけると一言悪態を吐いてその場を去っていった。一平は額に浮かんだ嫌な汗を拭ってすがるように律の肩に両手を置いた。  「勘弁してくださいよ、ここで喧嘩になったら自分止められませんって」  「え、止めなくていいよ?止めなくても一平のせいにはならないし、俺は俺で心ゆくまであいつをぶちのめせるし」  一平の口はぽかんと開いたまま塞がらなかった。律はそんな一平の表情を見て吹き出した。  「だあいじょぶだって、冗談冗談!俺だって後々マルさんに叱られるのやだし、全部頭ん中で済ましてるから」  果たしてそれで本当に大丈夫なのか、とは訊かないことにした。  「あいつ、ムカつくんだよね。アラ還で俺と同じ階級のくせに先輩面かましやがって、俺を見るたんびにいっつも高圧的でぐちぐち文句垂れてさ。老害もいいとこだよ。あーあ、さっさとクビでも切られないかなあ、物理的に」  頬を膨らましてぷんすこする姿は、傍から見れば可愛らしくも見える。しかし、律の場合いつ行動に出てもおかしくない点で彼の怒りの感情というものはあまりにも恐ろしいのだった。一平は律の持つレジ袋をつついて話を逸らす。  「ほら、早く戻りましょうよ。皆さんきっと腹空かせてますよ」  「そだね、戻ろ戻ろ」  律はけろっと笑って頷いた。軽やかなステップで本館への連絡通路を進む彼の後ろを、一平は重くなった上半身を必死に起こして追った。  本館を数階分上り、通路を突っ切って処理班棟へ入ると、建物が一気に古臭くなった。ここの匂いは年季の入った高校の校舎のそれと同じであることに一平は最近気が付いた。連絡通路の出入り口にあるフロアマップには、「本館連絡通路」「階段」「エレベーター」「男女トイレ」「特殊処理班」「特処(とくしょ)備品庫」の文字列のみが書かれ、ワンフロア丸ごと特殊処理班の領域であることを示していた。  トイレと備品庫に挟まれた扉の上に、「特殊処理班」と書かれたパネルが掲げられている。律が扉の脇にあるカードリーダーに職員証をかざすと、ロックの外れる軽い音がしたのち、自動で左右に扉が開いた。重厚な造りになってはいるが、見た目以上にスムーズに開く。中途半端な古臭さを持った空間の中、この扉だけ随分進んだ技術を持っており、異様な存在感を放っていた。  「戻りましたー」  「おかえりーっ」  レジ袋を掲げた律に、真っ先に寄ってきたのは特処最年長の執行(しゅうぎょう)(あきら)だった。大きな目をきらきらさせて、レジ袋を見下ろす。  「お昼、買ってきてくれたのっ」「あったりまえですよ」  律の返答を聞くと、聡はくるっと振り返り、部屋の奥にいた円山(まるやま)燈馬(とうま)を見た。  「ほらあ、言ったど」  燈馬は眉間に皺を寄せつつ、一度頷いた。そのまま腕時計をちらりと確認する。「もう2時も大きく回ってるがな」  このぼやきが自身に向けられていると理解していた律は、肩をすくめてみせた。聡は律からレジ袋を受け取ると、彼の後ろに疲れた顔をして立っていた一平に、まん丸にした目を向けた。  「どしたのそんな顔して…あ、さてはまたなんか厄介ごとに巻き込まれたなあ」  にんまりと笑う聡に、一平はがっくりと頭を落とすようにして頷く。  「いろんな面でりっくんは『教育』してくれてるんだね」  「はい、とても…鍛えられてます」  はっはっは、と太い声で聡は笑う。「無駄にはならないよ、気ばいやんせ」そう言うと、大きな骨ばった手で一平の肩をばしばし叩いた。余りの力に飛び上がる一平をよそに袋の中に顔を突っ込み、好物のカルボナーラを見つけると声を上げて喜んだ。  部屋の中央に置かれた白いテーブルの上に、聡が袋の中身を広げた。各々自分の食べたいコンビニ弁当を手に取り、テーブルの周りを等間隔で囲む椅子に腰を下ろした。どの弁当にも2以上の手が伸びないところを見ると、律の選択があまりにも正確であったことがよく分かる。  燈馬が親子丼の蓋を開けながら、向かいに座って割り箸の袋を千切る一平をちらと窺った。  「どうだった、初めての実地演習は」  一平が頭の中で答えをまとめつつ、割り箸の一端を歯で咥え、もう一端を掴み勢いよく下に引く。割り箸は綺麗に割れた。  「資料を読むだけではことをことができました」  もっともらしい一平の答えに、納得がいかないとでも言うように燈馬は眉を顰めた。一平はその目を見返すことはなかった。彼の視線から逃げつつも、ずっと頭の壁に貼りついている思いを燈馬には言わなければならないことを理解していた。   一平は箸を正しく持った手に力を込めた。  「…ただ、同時に今の自分にはできないことだと痛感しました」  その返答を隣で聞いていた律が元々大きな目をさらに丸くさせた。「そお?俺はそんなことないと思うけど」言うだけ言うと、ケチャップを大量にかけたオムライスをプラスプーンたっぷりに掬い、ぱっくり開いた深紅の扉の中に押し込んだ。  「…律がそんなことないと言うなら気にする必要はないと思うが」  冷えたままの親子丼にフォークを突き立て、燈馬は捕らえた鶏肉を睨んだ。  「だが、俺としてはお前がどうしてそう感じたか知りたい」  一平はぬるい蕎麦を一口啜り、それを押し込むように後から麺汁を飲み下す。隣で美味しそうにオムライスをぱくついている律に、今ばかりは彼の辛辣な同意がほしいと期待を込め視線を向けた。  「自分は、Cクラス相手でも、呑まれるところでした。律さんがいなければ、あのまま自分は」  自身の名前を呼ばれた瞬間だけ、律は一平の方を見たが、彼の期待を知ってか知らずか、何も言わずにこにこしたまま食事に意識を戻してしまった。  期待した反応が得られなかった一平は、落胆する間もなく当時の感覚を想起した。彼は、身体の中心を通る大動脈と大静脈が身を寄せ合って震えているのを感じた。呑まれそうになったことが恐ろしいのではない。恐怖など感じずに、むしろ心地よく呑まれかけたことが恐ろしかった。  その彼の恐れを的確に感じ取った燈馬は、左手で首筋を擦った。そのまま、黙って数度頷く。歯でフォークに刺さった鶏肉を引き抜き、一平にかける言葉を考えていた。  「一平の強みは優しいところ」  口から戻したスプーンを振りながら、律が不意に言葉を発した。意識せずとも見開いて見える大きな目が、彼を見る一平の目を掴んだ。  「一平の弱みは、優しいところ」  律の言葉に、一平より先に燈馬が反応した。  「間違ってないが的確じゃない」  律は一平に向けた目をそのまま燈馬にずらした。  「分かってますよお、そんなの」  再び、一平を見る。  「でも、一平なら理解できますから」  明らかに戸惑いを渦巻かせた一平の目を見て、燈馬が小さく息を吐く。口を開きかけたが、律の制止にその口を結んだ。  「今じゃなくても、いつか、ね」  律はにっこり笑うと、子どもにそうするように一平の頭をぽんぽん叩いた。  「いつかでいいんだからね、今わかる必要はないんだから」  一平は疑問の意を隠すことなく燈馬を見た。燈馬は彼を見ることなく、口の周りをケチャップで汚した律の笑顔に、悲痛とも怒りとも諦めとも取れる表情を向けていた。  なんとなく低く渦巻いている空気を、給湯室から聞こえた聡の絶叫が貫いた。燈馬はすかさず席を立ち、声のする方へ飛んでいった。一平も心配になり振り向きざまに立ち上がったが、律が優しく肩に触れたのを感じて動きを止めた。鼻をひくつかせて、律がにんまりと笑う。  「大丈夫、カルボナーラ爆発させただけだと思うから」  「それって大丈夫なんですか」  うーん、とわざとらしく律は首を傾げてみせる。  「聡さんは大丈夫じゃないかもねえ」  しばらくすると、散々な姿になったカルボナーラを手にした燈馬に続いて、聡がぴいぴい泣きながら給湯室から出てきた。  「もーみっともないなあ、四十もいいとこのおじさんがそんなに泣いちゃって」  律は心配する様子もなく、けらけらと笑っている。  「うるさあい!」  聡は律の肩をぽかぽか叩いた。ぽかぽか、と描写されうる態様ではあるが、力の加減を知らない聡のことだから、相当な力で叩かれているはずである。いろいろなことを心配しながらふたりのことを交互に見る一平をよそに、律は相変わらず楽しそうに笑いながら聡にされるがままになっていた。その脇で、燈馬が眉間に皺を寄せながら辛うじて食べられそうな部分を選別していた。  扉を開けたとき、そんなひっちゃかめっちゃかな光景が目に飛び込んできた渡辺(わたなべ)みゆきは、口から漏れる溜め息を抑えることができなかった。すぐさま自身の方を助けを求めるように見てきた一平に、彼女の顔はさらに険しくなるのだった。
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