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 ヒト型思念実体は、みゆきの息が切れるより前に辛うじて止まった。機動部隊員が走りながら放った弾丸が、どうやら当たったらしい。「傷口」と思しき箇所から、細い煙が上っていた。  「容赦しねえぞ、このクソ野郎」  実体が止まったところを、追い打ちをかけるようにして一人の機動部隊員が銃口を向けた。その鉄の口を律が手で塞ぎ、眼窩から飛び出さんばかりにひん剝かれた隊員の目を見た。  「急所は外してくださいよ、何も分からず仕舞いで帰るわけにはいきませんから」  隊員は律を睨むが、彼が少しも引く様子がないのを見ると、銃口を下ろし、脇を固めていた隊員に指示を出した。間髪入れず、同時に三発の弾丸が放たれ、実体に命中した。完全に動きを止めたのを見ると、律が一歩前に出て腰から金槌を抜いた。その両脇を、みゆきと追いついた一平が固めた。  四肢から煙を出した実体は、こちらを向いて一定のリズムで首を左右に倒していた。赤と青の筋が、血管のように絡み合って人の形を形成している。「目」と「耳」にあたる部分は、その筋の絡みが特に複雑で、まるでそれらを塞いでいるかのように見えた。  「みゆきさん、聴こえます?」  律が実体から目を離すことなくみゆきに問うた。みゆきは目を細めて頷いた。   「うるさいくらいにね。私でこんなだから、あんた鼓膜やられてるんじゃないの」  律は笑う。  「大丈夫です。それにやられるなら頭が先ですから」  二人の会話を聞きつつ、「聴こえない」一平は視えるものと頭に詰まった知識との間にある違和感を渦巻かせていた。  ――これが、最低でもAクラス?  確かに、この実体は榎本と藤田に入り込み、伊佐を殺した。危険であることに間違いはない。しかし、一平の知るAクラスの実体は、機動部隊の特殊銃で一発撃たれたところで止まるほど弱い存在ではない。それに、同じ空間を共有しているだけでそこにいる人間に健康被害をもたらすこともざらにある。だからこそ、その影響を遮断する防具を身に着けた機動部隊が派遣され、特殊処理班が彼らに囲まれるような陣形を取っているのだ。  だが、今は自分を含めた三人の特処班員が先頭に立ち、機動部隊員がその後ろに控えている形になっている。それでも、何の異変も無いのである。彼の思考に気付いたのか、律がやはり前を見たまま一平に話しかけた。  「気付いた?」  一平も、実体から目を離さず頷く。「視えない」みゆきが、こちらを向くのが感じられた。  「これは…高く見積もってもBクラス実体じゃないですか」  え、とみゆきの声が漏れる。彼女はうるさくて堪らないその「音」に、目を閉じて集中した。ただの雑音だと思っていたが、波長を合わせていくと「声」であることが判った。  【ドウシテ マチガイ オカシイ イッショ チガウノ】  男か女か、子どもか年寄りか分からないが、その「声」はずっと同じことを繰り返していた。みゆきは目を開き、合わせた波長をずらすまいと奥歯に力を込めた。律は何ともない顔をして、槌を手のひらに叩きつけながら実体に近づいた。予告の無い彼の行動に、一平はみゆきを見た。彼女は、少し考えたのち、目の動きで律についていくように言った。  律は実体から30cm手前で止まり、それと向かい合った。一平は彼のすぐ後ろにつき、ナックルがしっかりとその手に嵌っていることを確認した。実体の「目」が、一平を見、律を見た。「目」に「眼球」はなかったが、一平はその「眼球」が律の全身を舐めまわすかの如く見ているように感じられた。  【ドウシテ オマエハ シナナイ】  後方のみゆきが「声」の変化に気付き、眉をぴくりと釣り上げた。律は微笑んで言った。  「死ぬ必要がないからだよ。…君も同じはずなんだけどなあ」  【ワタシモ オマエモ マチガイ】  律は大口を開け、ハッと短く笑った。  「そんなの!…どうでもいいさ。たとえ『間違い』でも、死ぬ理由にはならないよ」  【オマエモ ワタシモ マチガイ  マチガイ オカシイ “チガウ”ハ オカシイ】  律は困ったように、しかしわざとらしく、眉尻を下げた。  「みんな違ってみんないい、ってステキな言葉、君知らないの?…俺たち、『違う』かもしれないけどさあ、おかしくはないんだよ。俺たちは、『間違い』なんかじゃないんだよ」  【…“チガウ”ハ オカシイ】  「分からないかなあ!…そう言う奴らがおかしいんだよ、おかしくて、間違ってるんだよ」  律は面倒に思う気持ちを隠すことをせずに言った。実体の声は、止んだ。それを確認した律は、努めて穏やかに笑った。  「でもね、君は間違えたことをした」  実体が、右に首を倒したまま止まった。一平には、それが律の次の言葉を素直に待っているように思えた。  「…分からないかなあ」  怒り以外の何物でもない感情が、その声には込められていた。実体の左腕の銃創が、シュゥっと音を立てる。  「君は、何にも間違えてない人間を、三人、殺したんだよ」  実体の頭が、びくりと戻ったかと思うと、左に倒れた。  【サミシイ イッショ ヒトリハ サミ――】  「殺していいんだ」  律は、実体の声を遮った。いつもの彼なら取らない行動に、はっとしたみゆきが律を止めようとする。その肩にそっと手を置き、今まで状況を静観していた聡がゆっくり首を横に振った。彼の目を見たみゆきは、聡が「大丈夫」と言っていることを理解した。  律の槌が、彼の左手のひらを叩く速度が速くなる。一平はじりじりと詰まる二者の距離を測りながら、右手をどちらにもすぐ伸ばせるように構えた。  「寂しかったら、人を殺していいんだ」  実体は何も言わない。律の額に筋が浮き出た。  「何の罪もない人間を!何も間違えてない人間を!寂しかったら殺していいんだ!」  律の目が見開かれ、真っ赤な唇が笑っているかのように歪む。  「それは、間違いじゃないんだ!」  実体の四つの銃創が、それぞれ激しく音をたてはじめた。心なしか、輪郭線も鈍くなっているように見える。  「俺は、俺や君のことを『おかしい』『間違えてる』って言う奴らを許さないよ」  一平は、律の横顔を見た。その顔は、悲しみと、悔しさと、そして尋常ではない怒りに満たされていた。今まで見たどんな彼の表情より、人間らしく思えた。  「でもね、それ以上に俺たちの仲間を殺した君が許せない…いや、俺は絶対に、許さない」  律はそう言うと、実体の左足の甲を両手で掴んだ金槌で叩き潰した。そこから溢れだした煙とともに発された実体の絶叫が、律とみゆきの鼓膜をつんざいた。聴こえないはずの一平も、空気が波打つように震えるのを全身で感じた。律は一息つくと、にこっと一平に笑いかけて部隊の方へ戻った。一平は万が一に備え、実体を視界にとらえたまま下がった。  先程、銃口を下ろされた隊員が律を見た。  「…ありがとうよ」  律は、その隊員が「機ト02」と書かれた腕章を嵌めていることを知っていた。  「いえ、俺なら自分で仇は討ちたいので。…それに、もう俺からの仇は返せましたから」  律は微笑むと、一平たち班員に下がるように目配せした。それと代わるように、五人の機動部隊員が前に出て、身悶えする実体に銃を向ける。  02の合図とともに、一斉に銃弾が放たれる。その弾は、全て実体に命中した。02の銃口から放たれた弾が実体の「頭」を貫くのを、特処班員たちは見届けた。肉が焼けるような音を立てると、実体はあっけなく煙となって消失した。  「…任務完了。総員撤退」  02の低い声に、機動部隊員は踵を返して去った。  「おれたちも戻ろう。マルが待ってるよ」  微笑む聡に、班員たちは黙って頷き、機動部隊員の背中について走った。
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