雪を愛する人

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今年も雪が降る季節がやってきた。 何気なく過ごす日々が流れ、時折り訪れる仕事の喧噪に消耗しながらも、なんとかやっていけている。 年に何回か集まっていた友人たちからは、ここ数年でぱったりと連絡が来なくなった。 特にやりたいこともなく、打ち込める趣味もない私は、いつもプライベートな時間を持て余していた。 一人暮らしを始めてから親兄弟との関係も希薄になり、実家に顔を出す気にもなれない。 働いている職場でも、正社員たちが集まって忘年会などをしているようだが。 うまく言えないけど、けして仲は良好とはいえない状態。 たとえ年末年始と何かとイベントの多い時期でも、そんな私はいつも独りだ。 元々人付き合いが得意ではないので、それはそれで構わないのだけど、このままあと数十年生きるには、張り合いがなさ過ぎる気がする。 別に自殺願望があるわけではないし、今の生活に大きな不満があるわけではない。 お金がなくても人生はそれなりに楽しめる、いや暇は潰せるけど。 このまま歳をとっていくと、きっと“ああしておけばよかった”“他人との付き合いを大事にしておけばよかった”と考えるようになると、何かのインターネット動画で観た。 私もそれに当てはまるのだろうか。 いや、どちらを選択してもきっと私のような人間は後悔することになると思う。 だったらせめて、心穏やかでいられるようにするのがいい。 何を選んでも悔やむのならば、ストレスが少ない選択をする。 そう、私は考えていた。 ――今年も雪が降る季節がやってきた。 だけど、こんな私なのだけれど。 この寒い冬の時期は好きだ。 誰とも会わない、誰とも喜びを共有しない私だけど、雪が降る季節を愛している。 それは、こんな私でも一緒にいて楽しかった唯一の人が、この季節を愛する人だったから。 「はぁ、今年も雪はつもらなそうだね……」 私の住む関東で、雪がつもるのは(まれ)だ。 その人は、いつもそのことを残念がっていて、よく私は雪がつもる地域に引っ越せばいいのではと、声をかけていた。 「それじゃ意味ないよ! 自分たちの住んでいるところが雪景色になるのがいいんじゃん!」 そして、そう言ってみれば引っ越しする無意味さを説明され、私はいつもため息をつく。 だけどもう、私にため息をつかせる人はいない。 その人は、ある日に突然交通事故にあって亡くなった。 飲酒運転していたトラックに轢かれてしまった。 その後、私はその人の葬式に出たけど、悲しいはずなのに涙が出なかった。 周りでは、共通の知り合いやその人の両親が泣き崩れる中で、私はなんの動揺もしていなかったのだ。 内心でこういうものかと、そのことがあってから、自分は冷たい人間なのだと思っている。 その葬式からもう十年近く経つ。 私は、今年もその人の墓参りに向かっていた。 その人が好きだった雪見だいふくと花束を手に、今まさに庭園へと足を踏み入れ、その人の墓標の前に立つ。 「今年も来たよ……」 そう呟きながら線香をあげ、両手の手の平を合わす。 寒さで手がかじかむ。 ふと空を見上げると、雪が降り始めていた。 小さな(あられ)のような結晶を眺めながらも、どうせすぐに止むだろうと、ため息をつく。 たとえこのまま降りつもったとしても、もうあの人はいない。 そう思うと、葬式では流れなかった涙が両目から溢れてくる。 毎年、毎年だ。 毎年私はこの墓の前で泣く。 最初は一滴だけこぼれた涙だったけど、年々酷く泣くようになってしまった。 今ではもう、両目が真っ赤になってしまうくらいぐちゃぐちゃに涙を流す。 悲しい、辛い。 こんなの耐えられないと思うほど、心も軋んでいく。 今年も雪は降りつもらないと思う。 だけど、私がその人を想う気持ちは降りつもっていく。 この話を数人にしたことがあって、忘れたほうがいいと言われたことがある。 人は痛みを忘れることのできる生き物だと、言ってくれた人なりに気を遣ってくれたことがわかる言葉をかけてくれた。 辛いことは忘れてしまったほうがいい――。 きっと、それが正解なんだろうけど。 それでも私にとって、降りつもるこの想いは、その人との日々を思い出す宝物なんだ。 「また来年……会いに来るからね……」 了
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