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11 頑固者と嵐と牝牛
ふ……と、霞む絵画のように、オリガが身を乗り出した。
その陰りを帯びた美しさには、静けさと秘密と、そして高圧的な鋭さがあった。
隣で夫が息を呑み、私は硬直して息を止めた。
背後からはテューネの気迫を感じる。
「御迷惑をおかけした事はお詫びしました。どうか空想は奥様の慈悲深い御心に隠し、目を瞑ってはいただけませんか」
引き下がれば一生不安を抱えて生きていかなければいけなくなる。
私の空想が当たっているから、オリガは怒ったのだ。そう、怒っている。アルメアン侯爵の孫娘を怒らせたまま関係を終わらせてはいけない。
私は怯えたまま再び息を吸った。
「私の父はエーケダール伯爵です。陸路だけでなく海路でも、誰にも悟られずに、レディ・フレイヤを安全な場所へ逃がす事ができます」
「厚いお申し出に感謝しますが、それには及びません。妹が正気を失ったのは、懐いていた養父が死んだからです。逃げ隠れする必要はありません」
「修道士は見つかりました?」
口から滑り出た言葉が完全に空気を変えた。
夫が咄嗟に私の手を握って制止したのと、オリガが腰をあげるのは同時だった。それに伴いぬらりとテューネが進み出て、卓上に腕を差し入れた。
「ありがとう、テューネ。ちょうど紅茶がぬるくなった頃だわ」
私がそう声をかけた次の瞬間、オリガがテューネの手首を掴んだ。それは剣の心得がある者の動きに間違いなかった。テューネの利き手を封じたのだから。
「忘れてください、伯爵。あなた方にまで危害が及ぶ」
オリガは私ではなく夫の目をまっすぐ見つめ、囁いた。
気迫勝負が始まったと悟った夫は、卓上に両手をついてすっと立ちあがった。
そうすると、座っているのは私だけという事になる。
私もそっと腰をあげかけ、
「座ってろ」
ついに小声で怒られた。
夫はそのまま静かな怒りをオリガに向けた。
「あなたは妹君を止められなかった。茶番は終わりです。妻を傷つけるかもしれない人物はこの上ない脅威だ。あなたの手に余るなら協力しますよ、レディ・オリガ。妻のために、なんでもする。それで、あなたはなにを恐れているんです? 当家使用人はあなたからなにも奪おうとはいたしません」
オリガがテューネの手を離す。
それからすとんと座り直し、試すような笑顔で夫を見あげた。無邪気さや可憐さを装う笑顔だったけれど、奇跡のような愛らしさだった。
「どこまでご存知です?」
「父親の名前以外は」
夫は座らずに鎌をかけている。私は夫の背中を軽く叩き宥めた。私が心配をかけたせいだけれど、オリガは私より気の毒な人である事には違いないのだから、そう怒らないでほしい。
「私の? それとも、妹の宿した子の父親でしょうか?」
オリガの口からさらりと投げられた問いを聞いて、私はついに夫の裾を引っ張って座らせた。夫はかなり態度を軟化させて問い返した。
「今あなたの御父上の名を暴いてなんになります?」
「たしかに、仰る通りですね。ところで伯爵、腹違いの兄弟に心当たりはありませんか?」
「残念ながら父にそんな度胸はありません」
「では他人の空似なのでしょう。妹は、駆け落ちをしたはずでした。けれど戻ってきた。シベリウス伯爵家の晩餐会で、招待客に紛れて妹を迎えにくると約束したそうです。むこうは伯爵を知っているかもしれません。妹が一目で正気を失うほど似ているようなので」
「似た顔が辺りをうろついていて気付かないという事はありませんよ」
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