【作品鑑賞 D坂の殺人事件(要約)~明智小五郎最初の事件~】

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              (下)推理  さて、殺人事件から十日ほどたったある日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。  それまで、明智とはカフェで顔を合していたばかりで、宿を訪ねるのは、その時が始めてだったけれど、かねて住所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。  彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッとたまげてしまった。部屋の様子が余りにも異様だったからだ。明智が変り者だということを知らぬではなかったけれど、これはまた変り過ぎていた。  何のことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。真ん中の所に少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ、他には何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われる程だ。 「どうも狭くっていけませんが、それに、座蒲団がないのです。すみませんが、柔かそうな本の上へでも坐って下さい」  私は書物の山に分け入って、やっと坐る場所を見つけたが、あまりのことに、暫く、ぼんやりとそのあたりを見回していた。  私は、かくも風変りな部屋の主である明智小五郎の人となりについて、ここで一応説明して置かねばなるまい。彼が、これという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。強しいて云えば書生であろうか。だが、書生にしては余程風変りな書生だ。 (注・下宿している学生や若者を指す)    いつか彼が 「僕は人間を研究しているんですよ」 といったことがあるが、その時私には、それが何を意味するのかよく分らなかった。ただ分っているのは、彼が犯罪や探偵について、並々ならぬ興味と、恐るべく豊富な知識を持っていることだ。  年は私と同じ位で、二十五歳を越してはいまい。どちらかと云えば痩せた方で、先にも云った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある、といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な、講釈師の神田伯竜を思出させる様な歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ、――伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているうちで、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そして最も天才的な顔を想像するがよい――ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている。そして、彼は人と話している間にもよく、指で、そのモジャモジャになっている髪の毛を、ひたすらにモジャモジャにするための様にひっかきまわすのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物に、よれよれの兵児帯へこおびを締めている。 「よく訪ねてくれましたね。例のD坂の事件はどうです。警察の方では一向犯人の見込がつかぬようではありませんか」  明智は例の頭をひっかき回しながら、ジロジロ私の顔を眺めて云う。 「実は僕は一つの結論に達したのです。それを君に御報告しようと思って……」 「ホウ。そいつはすてきですね。詳しく聞き度いものですね」  私は、そういう彼の目付に、何が分るものかというような、軽蔑と安心の色が浮かんでいるのを見逃さなかった。私は勢込いきおいこんで話し始めた。 「僕の友達に一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の係の小林刑事というのと懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様を詳しく知ることが出来ましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです」  僕は電燈のスイッチに明智の指紋しか残っておらず、犯人の指紋が見つからなかったことを説明した。警察では明智の指紋が犯人の指紋を消してしまったと考えているようだが、私はそうは思っていなかった。 「僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います、そして、それを警察へ訴える前に、君の所へ話しに来たのは何のためだと思います。  そしてもう一つ。君は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色について、まるで違った申立てをしたことをね。一人は黒だといい、一人は白だと云うのです。いくら人間の目が不確かだといって、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。  僕は二人の陳述は両方とも間違でないと思うのですよ。君、分りますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ。……つまり、太い黒の棒縞の浴衣なんかですね。よく宿屋の貸浴衣にある様な……ではなぜそれが一人に真白に見え、もう一人には真黒に見えたかといいますと、彼等は障子の格子のすき間から見たのですから、丁度その瞬間、一人の目が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の目が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かも知れませんが、決して不可能ではないのです。そして、この場合こう考えるよりほかに方法がないのです。  さて、犯人の着物の縞柄は分りましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたという迄で、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋なんです」 僕は、さっき話した新聞記者の友達のつてで、小林刑事に頼んでその指紋を――君の指紋ですよ――よく検べさせて貰ったのです。その結果いよいよ僕の考えてることが間違っていないのを確めました。ところで、君、硯があったら、一寸貸してくれませんか」  そこで、私は一つの実験をやって見せた。先ず硯を借りる、私は右の拇指に薄く墨をつけて、懐から出した半紙の上に一つの指紋を捺した。それから、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ前の指紋の上から、今度は指の方向を換えて念入りに押えつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋がハッキリ現れた。 「警察では、君の指紋が犯人の指紋の上に重って、それを消してしまったのだと解釈しているのですが、それは今の実験でも分る通り不可能なんですよ。いくら強く押した所で、指紋というものが線で出来ている以上、線と線との間に、前の指紋の跡が残る筈です。  しかし、あの電燈を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指紋が残っていなければなりません。  君、以上の事柄は一体何を語っているでしょう。僕はこういう風に考えるのですよ。一人の荒い棒縞の着物を着た男が、――その男は多分死んだ女の幼馴染で、失恋という理由なんかも考えられますね――古本屋の主人が夜店を出すことを知っていてその留守の間に女を襲うたのです。声を立てたり抵抗したりした形跡がないのですから、女はその男をよく知っていたに相違ありません。で、まんまと目的を果した男は、死骸の発見を後らす為に、電燈を消して立去ったのです。しかし、この男の一期の不覚は、障子の格子の開いているのを知らなかったこと、そして、驚いてそれを閉めた時に、偶然店先にいた二人の学生に姿を見られたことでした。  それから、男は一旦外へ出ましたが、ふと気がついたのは、電燈を消した時、スイッチに指紋が残ったに相違ないということです。これはどうしても消してしまわねばなりません。  ただしもう一度同じ方法で部屋の中へ忍込むのは危険です。そこで、男は一つの妙案を思いつきました。それは、自から殺人事件の発見者になることです。そうすれば、少しも不自然もなく、自分の手で電燈をつけて、以前の指紋に対する疑いをなくしてしまうことが出来るばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとは誰しも考えませんからね。  二重の利益があるのです。  こうして、彼は何食わぬ顔で警察のやり方を見ていたのです。大胆にも証言さえしました。しかも、その結果は彼の思う壺だったのですよ。五日たっても十日たっても、誰も彼を捕えに来るものはなかったのですからね」  この私の話を、明智小五郎はどんな表情で聴いていたか。私は、恐らく話の中途で、何か変った表情をするか、言葉を挟むだろうと予期していた。ところが、驚いたことには、彼の顔には何の表情も現れぬのだ。 「君はきっと、それじゃ、その犯人はどこから入って、どこから逃げたかと反問するでしょう。確かに、その点が明かにならなければ、他の全てのことが分っても何の甲斐もないのですからね。だが、遺憾ながら、それも僕が探り出したのですよ」  私は明智の様子を伺いながら話を続けた。明智の態度に微塵も変化はなかった。 「あの晩の捜査の結果では、全然犯人の出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった以上、犯人が出入しなかった筈はないのですから、刑事の捜索にどこか抜目があったと考える外はありません。警察でもそれには随分苦心した様子ですが、不幸にして、彼等は、僕という一介の書生に及ばなかったのですよ」  その時の私の胸中を説明するなら、いくぶん得意げだったかと思う。 「ナアニ、実は下らぬ事なんですがね、僕はこう思ったのです。  犯人は、何か、人の目にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で通ったのじゃないだろうか、そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうか、とね。つまり、人間の注意力の盲点――我々の目に盲点があると同じように、注意力にもそれがありますよ――を利用したのではないかと考えた訳です。そこで、僕が目をつけたのは、あの古本屋の一軒置いて隣の旭屋という蕎麦屋です」  先に説明した通り、古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、蕎麦屋と並んでいるのだ。 「僕はあすこへ行って、事件の当夜八時頃に、便所を借りて行った男はないかと聞いて見たのです。あの旭屋は君も知っているでしょうが、店から土間続きで、裏木戸まで行ける様になっていて、その裏木戸のすぐ側に便所があるのですから、便所を借りるように見せかけて、裏口から出て行って、また入って来るのは訳はありませんからね。――例のアイスクリーム屋は路地を出た角に店を出していたのですから、見つかる筈はありません――それに、相手が蕎麦屋ですから、便所を借りるということが極めて自然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたそうですから、おあつらえ向きなんです。君、なんとすてきな、思いつきではありませんか。 (注・「私」の推理とは?  犯人は長屋の構造を活用。便所を借りるふりをして蕎麦屋に入る。  裏口から路地に出て古本屋の裏口から侵入。  犯行後、また蕎麦屋の裏口から蕎麦屋に戻って表から堂々と店を出て行ったという意味。)  そして、案の定、ちょうどその時分に便所を借りた客があったのです。ただ、残念なことには、旭屋の主人は、その男の顔形とか着物の縞柄なぞを少しも覚えていないのですがね。――僕は早速この事を例の友達を通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。刑事は自分でも蕎麦屋を調べたようでしたが、それ以上何も分らなかったのです――」  私は少し言葉を切って、明智に発言の余裕を与えた。彼の立場は、この際何とか一言云わないでいられぬ筈だ。ころが、彼は相変らず頭をかき回しながら、すまし込んでいるのだ。 「君、明智君、僕のいう意味が分るでしょう。動かぬ証拠が君を指しているのですよ。君はあの死人の細君と幼馴染だといっていながら、あの晩、細君の身許調べなんかあった時に、側で聞いていて、少しもそれを申立てなかったではありませんか」  私は明智への優勢をいささかも疑わず、勢い込んで明智に詰め寄っていた。 「明智君、僕のいうことが間違っていますか。どうです。もし出来るなら君の弁明を聞こうじゃありませんか」  読者諸君、私がこういって詰めよった時、奇人明智小五郎は何をしたと思います。面目なさにつっぷしてしまったとでも思うのですか。どうしてどうして、彼はまるで意表外のやり方で、私を驚かせたのです。というのは、彼はいきなりゲラゲラと笑い出したのです。 「いや失敬失敬、決して笑うつもりではなかったのですけれど、君は余り真面目だもんだから」 明智は弁解するように云った。 「君の考えはなかなか面白いですよ。惜しいことには、君の推理は余りに外面的で、そして物質的ですよ。例えばですね。僕とあの女との関係についても、君は、僕達がどんな風な幼馴染だったかということを、内面的に心理的に調べて見ましたか。僕は、まだ小学校へも入らぬ時分に彼女と別れたきりなのですからね。もっとも、最近偶然そのことが分って、二三度話し合ったことはありますけれど」
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