【作品鑑賞 D坂の殺人事件(要約)~明智小五郎最初の事件~】

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「では、例えば指紋のことはどういう風に考えたらいいのですか?」 「君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。今の指紋のことも、じきに分りましたから、僕も妙に思って調べて見たのですが、ハハ……、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。僕がスイッチをひねったために電燈がついたと思ったのは間違いで、あの時、慌てて電燈を動かしたので、一度切れたタングステンがつながったのですよ。スイッチに僕の指紋だけしかなかったのは、当りまえなのです。古い電球は、どうもしないでも、独りでに切れることがありますからね。  それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……」 (注・当時、電気の使用目的はほとんど照明にあった。そのため、庶民の住宅の電気設備は非常に簡素なものが多かった。  古本屋の部屋の電燈は誰かが消燈したわけではなく、電球が古かったか何らかの理由でいつのまにか自然に消燈していた。  明智があちこちいじくったことで、また復旧して電燈が点いたのである)  彼はそういって、彼の身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊の古ぼけた洋書を掘りだして来た。 「君、これを読んだことがありますか、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んで御覧なさい」  私は、彼の自信ありげな議論を聞いている内に、段々私自身の失敗を意識し始めていた。で、云われるままにその書物を受取って、読んで見た。そこには大体次のようなことが書いてあった。 <かつて一つの自動車犯罪事件があった。法廷において、真実を申立てる旨宣誓した証人の一人は、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今一人の証人は、雨降りの挙句で、道路はぬかるんでいたと誓言した。一人は、問題の自動車は徐行していたともいい、他の一人は、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また前者は、その村道には二三人しか居なかったといい、後者は、男や女や子供の通行人がたくさんあったと陳述した。この両人の証人は、共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁したとて、何の利益がある筈もない人々だった>  私が読み終えて呆然としていると明智が話を始めた。 「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り、人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ。あの晩の学生達は着物の色を見違えたと考えるのが無理でしょうか。彼等は何者かを見たかも知れません。しかしその者は棒縞の着物なんか着ていなかった筈です。少くとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信じてくれる訳には行かぬでしょうか。  さて最後に、蕎麦屋の便所を借りた男のことですがね。この点は僕も君と同じ考だったのです。どうも、あの旭屋の他に犯人の通路はないと思ったのですよ。で僕もあすこへ行って調べて見ましたが、その結果は、残念ながら、君と正反対の結論に達したのです。実際は便所を借りた男なんてなかったのですよ」  読者もすでに気づかれたであろうが、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠立てようとしているが、併しそれは同時に、犯罪そのものを否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しも分らなかった。 「で、君は犯人の見当がついているのですか」 「ついていますよ」 彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。 「最初僕の注意を惹いたのは、古本屋の細君の身体中にある生傷のあったことです。それから間もなく、僕は蕎麦屋の細君の身体にも同じ様な生傷があることを聞込みました。これは君も知っているでしょう。併し、彼女等の夫は、そんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても蕎麦屋にしても、おとなしそうな、物分りのいい男なんですからね。僕は何となく、そこにある秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです」  私は色々想像をめぐらして見たけれど、どうにも彼の考えていることが分り兼ねた。  私自身の失敗を恥じることを忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。 「で、僕の考かんがえを云いますとね、殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらますためにあんな便所を借りた男のことを云ったのですよ」  明智の思いがけぬ結論に、私はしばらく穴が開くほどに彼の顔を見ていた。 「旭屋の主人というのは、サード卿(マルキ・ド・サド)の流れをくんだ、ひどい惨虐色情者で、何という運命のいたずらでしょう、一軒置いて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼に劣らぬ被虐色情者だったのです。そして、彼等は、そういう病者に特有の巧みさを以て、誰にも見つけられずに、姦通していたのです。彼等は、最近までは、各々、夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじて充たしていました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じ様な生傷のあったのはその証拠です。しかし彼等がそれに満足しなかったのは云うまでもありません。ですから目と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼等の間に非常に敏速な了解の成立したことは想像に難くないではありませんか」  明智が静かに、だが私に身震いさせるほどの結論を口にしたのである。 「ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼等の、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が次第に倍加されて行きました。そして、ついにあの夜、この、彼等とても決して願わなかった事件を引き起こしてしまった訳なのです……」  私は、明智のこの異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、何という事件だ!  そこへ、下の煙草屋のお上さんが、夕刊を持って来た。明智はこれを受取って、社会面を見ていたが、やがて、そっとため息をついて云った。 「アア、とうとう耐え切れなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。ちょうどその事を話していた時に、こんな報導に接しるとは」  私は彼の指さす所を見た。そこには、小さい見出しで、十行ばかり、蕎麦屋の主人の自首した旨が記しるされてあった。                                終 (要約について)  底本としたのは戦前に刊行された版を照合した。  出来るだけ乱歩の表現を変えずに要約したかったが、現在、若い人が読むには理解しにくい当時の文化や風俗が出てくる。  文章自体、若い人には難しい部分もある。  思い切って段落を増やし表現も分かりやすくした。またなるべく自然になるよう心がけたものの、補足の文章を付け加えた部分もある。  以上、お断りしておく。
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