【作品鑑賞 心理試験(要約)~江戸川乱歩の代表作~】

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                 三  さて読者諸君、探偵小説というものの性質上、お話は決してこれで終らぬことを百も御承知であろう。その通りである。  この事件を担当した予審判事は、有名な笠森氏であった。 (注・戦前の制度。裁判の前に改めて予審判事が是非を調べる)  ところが笠森判事のまるで予想だにしなかったことであるが、取調べを進めるにつれて、斎藤を殺人犯と認める自信をもてなくなってきた。斎藤は窃盗は認めたが、殺人については涙ながらに否定する。それを頭から無視する気にはどうしてもなれなかった。  こうして、事件から一ヶ月が経過した。ちょうどその時、老婆殺しの管轄の警察署長から耳よりな報告が齎もたらされた。それは事件の当日五千二百何十円在中の一個の財布が、老婆の家の近隣で拾得されたが、その届け主が、嫌疑者の斎藤の親友である蕗屋清一郎という学生だったというのだ。その大金の遺失者が一ヶ月たっても現れぬのはどう考えても不自然である。念のために御報告するということだった。  困り抜いていた笠森判事は、この報告を受取って、一道の光明を認めたように思った。さっそく蕗屋清一郎を召喚して訊問した。 「なぜ事件の当時、君を取調べた際、その大金拾得の事実を申立てなかったかね」 「おっしやることがよく分かりませんが、なぜ殺人事件の取り調べで何か拾ったという報告などしなければならないのですか」  蕗屋は笑みを浮かべて答える。判事は答えに窮した。  この答弁には十分理由があった。しかし、これが偶然であろうか。事件の当日、現場から余り遠くない所で、しかも第一の嫌疑者の親友である男が大金を拾得したというのが、これが果して偶然であろうか。  万策尽きた笠森判事はいよいよ奥の手を出す時だと思った。彼は二人の嫌疑者に対して、今まで成功した心理試験という方法を施そうと決心した。                  四  蕗屋清一郎は、第一回目の召喚を受けた際、予審判事が有名な素人心理学者の笠森氏だということを知った。  そして心理試験を度々施していることも知った。彼は、種々の書物によって、心理試験の何物であるかを、知り過ぎる程知っていた。  笠森判事は果してどのような心理試験を行うであろうか。大まかな見当は書物から予想がついた。  例えば、不意に「君は老婆を殺した犯人だろう」と問われた場合、彼は平気な顔で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」と云い返す自信はある。だが、その時不自然に脈搏が高まったり、呼吸が早くなる様なことはないだろうか。  だがよく考えれば何度も同じ質問を練習すれば、反応も弱まっていくのではあるまいか。彼は想定される質問を自分で作成し、何度も自分自身で質問と回答を繰り返した。  さて次には、言葉を通じて試験する方法だ。これとても恐れることはない。最もよく行われるのは、連想診断という奴だ。 「障子」だとか「机」だとか「インキ」だとか「ペン」だとか、なんでもない単語をいくつも順次に読み聞かせて、出来るだけ早く、少しも考えないで、それらの単語について連想した言葉をしゃべらせるのだ。  例えば、「障子」に対しては「窓」とか「敷居」とか「紙」とか「戸」とか色々の連想があるだろうが、どれでも構わない、その時ふと浮かんだ言葉を云わせる。  そして、それらの意味のない単語の間へ、「ナイフ」だとか「血」だとか「金」だとか「財布」だとか、犯罪に関係のある単語を、気づかれぬように混ぜて置いて、それに対する連想を調べるのだ。  先ず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件で云えば「植木鉢」という単語に対して、うっかり「金」と答えるかも知れない。即ち「植木鉢」の底から「金」を盗んだことが最も深く印象されているからだ。そこで彼は罪状を自白したことになる。  もう一つの方法は、問を発してから答を得るまでの時間を、ある装置によって精確に記録し、その遅速によって、例えば「障子」に対して「戸」と答えた時間が一秒間であったにも拘らず、「植木鉢」に対して「瀬戸物」と答えた時間が三秒間もかかったとすれば(実際はこんな単純なものではないけれど)それは「植木鉢」について最初に現れた連想を押し殺すために時間を取ったので、その被験者は怪しいということになるのだ。  この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」が必要なのは云うまでもないが、それよりももっと大切なのは、蕗屋に云わせると、無邪気なことだ。つまらない技巧を弄しないことだ。 「植木鉢」に対しては、あからさまに「金」又は「松」と答えるのが、一番安全な方法なのだ。というのは蕗屋は彼が犯人でなかったとしても、判事の取調べその他によって、犯罪事実をある程度まで熟知しているのが当然だから。そして、植木鉢の底に金があったという事実は、彼にとっては最近の最も深刻な印象に相違ないのだから、そう連想するのはあたり前ではないか。  問題は時間の点だ。これにはやはり「練習」が必要である。「植木鉢」と質問してきたら、少しもまごつかないで、すぐ「金」または「松」と答え得るように練習しておけばよいのだ。彼はこの「練習」数日を費した。  準備は整った。もう一人、斎藤も心理試験を受けるが、あの神経過敏な斎藤勇が質問に対して平気で答えられるはずがない。判事に対して犯人の確信を抱かせる結果になることは間違いない。  今や蕗屋は、何だか鼻唄でも歌い出したい気持ちになっていた。                
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