【作品鑑賞 心理試験(要約)~江戸川乱歩の代表作~】

4/4
前へ
/189ページ
次へ
                 六  笠森判事の私宅の一室で、判事は一通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こうつけ加えた。 「君を疑ったりして、全く申し訳ないと思っているのです。今日は、そのお詫びをしたかったのです」  そして、蕗屋のために紅茶や菓子が用意され、くつろいだ雰囲気で雑談が行われた。明智もそれに加わった。  判事は、彼のことを知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続の手続きを進めていると説明していた。  三人の間には、斎藤の噂を始めとして、色々の話題が話された。すっかり安心した蕗屋は、中でも一番雄弁な話し手だった。  そうしている内に、いつの間にか時間が経って、窓の外に夕闇が迫って来た。 「では、もう失礼しますが、別に御用はないでしょうか」 「オオ、すっかり忘れてしまうところだった」  明智が快活に云った。 「実はですね。あの殺人のあった部屋に、二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それに傷がついていたと云って問題になっているのですよ。というのは、その屏風は婆さんのものではなく人から預ってあった品で、持ち主の方では、 「殺人の際についた傷に相違ない。高価なものだから弁償して欲しい」 と言っているのです。  婆さんの甥の方は、 「元からあった傷かも知れない」 といって、なかなか応じないのです」  明智はそう言ってから蕗谷に向って身を乗り出した。 「あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、その屏風が以前に傷があったかどうか、ひょっとしたら御記憶じゃないでしょうか。どうでしょう。屏風なんか別に注意しなかったでしょうね。実は斎藤にも聞いて見たんですが、先生、怯えきっていて、よく分らない言動を繰り返しているのです」  蕗屋は屏風という言葉に思わずヒヤッとした。しかしよく聞いて見ると何でもないことなので、すっかり安心した。 「何をビクビクしているのだ。事件はもう落着してしまったのじゃないか」  彼はどんな風に答えてやろうかと思案したが、例によってありのままにやるのが一番いい方法のように考えられた。 「判事さんはよく御承知ですが、僕はあの部屋へ入ったのはたった一度切りなんです。それも、事件の二日前にね」  彼はニヤニヤ笑いながら云った。こうした云い方をするのが愉快でたまらないのだ。 「その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には絶対に傷なんかありませんでした」 「そうですか。本当に間違いないでしょうね」 「あれは六歌仙の絵でしたね。極彩色の絵でしたから、もしその時傷がついていたとすれば、見落した筈がありません」 「ありがとう」  明智はモジャモジャに延ばした頭を指でかき回しながら、嬉しそうに云った。これは、彼が多少興奮した際にやる一種の癖なのだ。 「実は、僕は最初から、あなたが屏風のことを知っておられるに相違ないと思ったのですよ。というのはね、この昨日の心理試験の記録の中で『絵』という問に対して、あなたは『屏風』という特別の答え方をしていますね。下宿屋にはあんまり屏風なんて備えてありませんしね」  蕗屋は明智の意味ありげな言葉にわずかだが不安を感じた。 「実は私は心理試験の結果を見てから、あなたのことを非常に不審に思っていた次第です」  この言葉は蕗屋の不安をさらに増幅させるのに充分すぎるほどだった。 「この前の連想試験の中には、事件に関係する八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全にパスしましたね。実際完全すぎたほどですよ。少しでも後ろ暗い所があれば、こうはいきませんからね。ところがよく見ると、あなたのこれらに対する反応時間は、それ以外の無意味な言葉よりも、皆、ほんの僅かずつではありますけれど、早くなってますね」  明智は相変わらず快活な調子ではあるが、蕗屋は彼の言葉に、不安と恐怖、そして敵愾心を募らせていった。 「例えば、『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇・六秒しかかかってない。これは珍らしい無邪気さですよ。 この三十個の単語の内で、一番連想しやすいのは先ず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇・七秒かかってますからね。『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、問題の八つの単語は、皆『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものよりも連想しやすいとは考えられません。それにも関わらず、あなたは、その難しい連想の方をかえって早く答えている。これはどういう意味でしょう」  明智の快活な目の奥に得体の知れない冷たい光が宿っている。蕗屋はその光に負けまいと必死になっていた。 「簡単なことです。あなたは、心理試験のことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょう。準備があまり行届き過ぎていて、別に早く答える積りはなかったのでしょうけれど、その言葉だけが早くなってしまったのです」  蕗屋は話し手の目をじっと見つめていた。どういう訳か、そらすことが出来ないのだ。彼に出来たことといえば、今までの冷静さを忘れ彼にしては珍しく大声で叫ぶことだった。 「失敬ではありませんか。弁護士があれこれ、心理試験の結果に異議を申すとはお門違いではないですか。僕はこれで失礼します」  蕗屋が立ち上がろうとした時だった。明智が笑みを浮かべたままの表情で大きく首を振った。 「それは君にとっては都合がよいのですが、無理な選択だと思いますよ。実を申しますと、今までの僕たちの問答は別室で正式に記録がなされているのです。後で署名と拇印の手数をおかけすることになるでしょう」  蕗屋は口が利けなかった。もし無理に口を利こうとすれば、それは直ちに恐怖の叫び声になったに相違ない。 「笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持込まれたのですかしら」  明智はとぼけた顔をして、判事に聞いた。 「それは明白です。犯罪事件の前日の夜です。つまり先月の四日です」 「あなたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていない筈じゃありませんか。ハハハハハ」  蕗屋は、真青になった顔の額の所にビッショリ汗を浮かせて、じっと黙り込んでいた。  彼の頭の中には、妙なことだが、子供の時分からの様々の出来事が、走馬燈の様に、めまぐるしく現れては消えていった。  長い沈黙が続いた。  その後に聞こえてきた明智の言葉は、あまりにも明瞭に蕗屋に聞こえ、完全に彼の退路が閉ざされたことを彼に教え諭していた。 「なぜあなたが屏風のことを知っていたのか。それはあなたが事件当日に現場にいたからです。事件後、直ちに屏風は証拠品として警察に運ばれました。 あの屏風が事件現場にあったのは、前日の夜から事件の発覚までの一日にも満たない時間なのです。蕗屋君。あなたには、この意味がお分かりですか」  蕗屋の耳には、明智の言葉がいつまでもよく聞こえ、恐らくは永遠に脳裏に記憶されていった。    
/189ページ

最初のコメントを投稿しよう!

41人が本棚に入れています
本棚に追加