41人が本棚に入れています
本棚に追加
もう少し詳しく、江戸川乱歩が日本のミステリー小説に与えた影響やエピソードも併せて見てみよう。
以下の文章は、ミステリー小説の評論家、中島河太郎(1917~1999)の労作『日本推理小説辞典』(1985 東京堂出版)の中の「江戸川乱歩」の項目、中島の他の評論や全集解説を中心にまとめてみた。
併せて江戸川乱歩の自伝『探偵小説四十年』の記述を参照しているほか、評論家の荒正人、ミステリー作家の松本清張の文章も引用している。
『探偵小説四十年』は早くから書き始められた自伝であるが、このタイトルで初めて書籍化されたのは1959年である。
なお中島河太郎はミステリー小説の研究により、江戸川乱歩が私費を投じて創立した「江戸川乱歩賞」の第一回受賞者に選ばれている。
□江戸川乱歩
1894年(明治二十七年)~1965年(昭和四十年)
三重県名張市に生まれる。本名は平井太郎。
早稲田大学経済学科卒業。その後はミステリー作家を夢見ながら職を転々とする。
1922年(大正十一年)。結婚後も困窮は続き、大阪で両親と暮らしていた頃に、短編小説『二銭銅貨』『一枚の切符』を執筆。
ペンネームをアメリカの作家で、ミステリー小説の創始者であるエドガー・アラン・ポーにちなんで「江戸川乱歩」とした。
最初は文芸評論家、英文学者、翻訳家であった馬場孤蝶に原稿を書留で送っている。清書が終わったのが九月の初めだったという。
馬場孤蝶は文豪、島崎藤村の親友。明治学院大学時代の同級生であった。藤村の自伝小説『桜の実の熟する時』にも「足立」の名前で登場する。
自伝『探偵小説四十年』によると乱歩は馬場孤蝶が海外のミステリー小説に通じていることを新聞雑誌の評論で知ったと云う。孤蝶はミステリー小説の専門誌と目されていた博文館の雑誌「新青年」のブレーンのひとりであった。
「新青年」には孤蝶の評論、エッセーが多数掲載されていた。
神戸で孤蝶の講演会が行われたときには、その日を待ちかねて出かけたという。
その際、イギリスのミステリー作家、フリーマンの「倒叙探偵小説」について知らされ、後の『心理試験』執筆に役立ったかもしれないと述べている。
乱歩は孤蝶とは直接面識もなく、しかも紹介状もないのに、いきなり孤蝶の住んでいた小石川の自宅に原稿を送りつけている。中島河太郎も相当非常識なふるまいであったことを示唆している。
折悪しく孤蝶は樋口一葉の記念碑建設などに忙殺され原稿に目を通す時間がなかった。乱歩は一ヶ月近く返事がないことに憤慨し、返送を求める詰問調の手紙を送り、孤蝶は丁寧な詫び状と共に原稿を送り返した。
後になって乱歩は馬場孤蝶の自宅を訪問して無礼の段を謝罪している。
馬場孤蝶は、面倒見のよい性格で慕われていたから、幾分性急な結論だったのではないかとも思われる。
結局、『二銭銅貨』は、ミステリー小説の専門誌と見られていた「新青年」の編集長の森下雨村宛てに送られた。この年の十一月の初めであった。
雨村はエッセーの中で、「江戸川乱歩」のペンネームを見て「生意気な奴だ」と反感を覚えたと書いている。事務的に、
<現在多忙につき、すぐには貴兄の原稿を読むことができません。また『新青年』は翻訳探偵小説を中心にしており、活字にする場合も他の雑誌に紹介することになるかと思います>
といった内容の返事を送った。
乱歩はまたしても、
<お返事を頂きありがとうございます。申し訳ありませんが他の雑誌に掲載するなら、わざわざ貴誌に送ったりはしません。貴誌に送ったのは海外の探偵小説に比べて遜色がないと自信があるからです。海外の探偵小説と比べて見劣りがしないと考えたなら是非掲載して頂きたい。そうでなければご返送願います>
と無礼と思われても仕方のない強気な手紙を送りつけている。
結局、雨村も自信に満ちた手紙に動かされて作品に目を通し、十月初めに「是非とも両作品掲載したい」と乱歩に丁重な手紙を送って有頂天にさせている。
特に『二銭銅貨』が非常に高い評価を得た。
乱歩は親友の井上勝喜に、
<「新青年」の主筆森下雨村という男がこれを見てつくづく驚嘆したというのだからおかしいじゃないか>
と書き送っている。
中島河太郎は、
<…ずいぶんぞんざいな言い方をしている。……乱歩の尊大さが気にかかるのである>
と批判的に書いている。
雨村は掲載を決めただけではない。
直ちに医学博士で大衆向けの大衆向けの医学書『闘病術』の著者である名古屋の小酒井不木に原稿を転送した。そして『新青年』では今後、新人作家を積極的に育てていきたいと抱負を述べている。
小酒井不木はミステリー小説の愛読者であり、雨村の懇願により「新青年」にミステリー小説や犯罪に関する評論やエッセーを次々と発表。知名度の高さから、ミステリー小説の広告塔の役割を果たしていた。
1923年(大正十二年)四月。『二銭銅貨』は不木の長文の推薦文が付けられて掲載された。
小酒井不木はその後も、乱歩を励まし作品を激賞する手紙を送り続け、1929年に三十八歳の若さで亡くなるまでその数は百十八通にのぼり、死の直前にも手紙を送っていた。
最初の単行本である『心理試験』(1925)刊行にあたっても不木が仲介の労を取るなど、乱歩にとっては生涯の恩人となった。
不木は単行本『心理試験』の序文で次のように書いた。
<まことにエドガー・アラン・ポーが探偵小説の鼻祖であるとおり、わが江戸川乱歩は、日本近代探偵小説の鼻祖であって、従ってこの創作集は日本探偵小説の一時期を画する尊いモニュメントということが出来るであろう>
そして『二銭銅貨』について中島河太郎は次のように述べる。
<はじめて創作の名に値する作品が登場し、これから創作推理小説が盛況を呈する気運を生じた>
江戸川乱歩の短編『二銭銅貨』が日本のミステリー小説の草分けであったことに疑いの余地はない。
最初のコメントを投稿しよう!