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三、
「榎野さん!」
「え?」
自分を呼ぶ声に我に返った。目の前には次のコミック用の表紙見本。顔を上げると心配そうにこちらを見る夏樹先生と目が合った。
「大丈夫ですか?」
あろう事か新刊の打ち合わせ中に気がそぞろになっていたらしい。
「あ……すみません。打ち合わせ中なのに」
「ほんとにどうしたんですか? 榎野さんがぼうっとしてるなんて、何かありました?」
「いえ、ほんとに何も……」
そう、本当に何もない。寧ろ、だから悩んでいるのだ。
あんな終わり方をしたのに、西川さんは何かを言ってくるわけでもなければ、不自然な態度もない。
先輩達について回って仕事を覚え、細かな事までメモをとっている姿は真面目そのもの。少年漫画と少女漫画の違いはあるとはいえ、ずっと漫画の編集に携わってきただけあって、もう編集部にも馴染んでいる。
それが嫌で、不気味で、そして怖くて仕方がない。ただでさえ長くは取れない睡眠時間が余計に短くなって、眠りも浅くなった。
「失礼しました。続けましょう。背景の色はもう少し彩度を上げた方がいいですかね?」
「あ、はい。そっちの方が好みですけど……榎野さん疲れてません?」
「すみません、昨日夜更かししてしまって」
「本当にそれだけですか? 顔色が良くないですよ」
眉をひそめる夏樹先生は本当に心配してくれているらしい。こんな顔も綺麗だなとか、いい漫画家さんと出会えたなとか、関係ない事を考えてしまう一方で、漫画家に心配をかけてしまうなんて編集者失格だとも思う。
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