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背後で革靴の足音が止まったのは明け方の事だった。
「榎野さん、何でできるんですか」
振り返らなくてもわかる西川さんの声。
視線は自然と真下へと下がった。ふとインクで汚れた手が目に留まる。
昔の手だ。手の甲や爪まで黒く汚れた、好きで漫画を描いていた頃の手。
それで思い出した。すっぴんだ。ファンデーションどころか眉すら描いてないし、電話を切ってすぐに飛び出したから服だって部屋着のまま。すっぴんでださい服、ただ後ろで結んだだけの髪。
思い出したくもない昔の自分の姿そのものだ。
「……あっ……」
ーーすっぴんでも気づかれないんだ。
気づいた途端、涙が込み上げた。
でも、原稿を濡らすわけにはいかない。溢れそうになるのを堪えながら、手を止めて原稿を奥へとずらす。
「榎野?」
「榎野さん?」
「どうした?」
「いえ……」
声が震えたけれど、もう止められなかった。
「漫画家、だったんです」
ほんの一瞬の静寂。それもすぐにざわめきへと変わる。
「漫画家⁉︎」
「デビューしてたって事か⁉︎」
「え、まさか! 榎野、新卒からうちだぞ⁉︎」
先輩達からも。
「え、榎野ちゃんが⁉︎」
「でもうまいですよ! これ、かなり描いてないと無理ですって!」
「えー⁉︎」
先生やアシスタント達からも驚きの声が上がる。
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