0人が本棚に入れています
本棚に追加
大晦日、理学部に所属する城谷は、同じ研究室の友人、高山を誘って、年越し蕎麦を食べるために店の前で並んでいた。
「大晦日なだけあって、結構並んでるな」
高山は城谷に、そう話しかけた
「そうだね。でもまぁ今日はマシな方だよ。いつもはもっと人が並んでるしね」
「そうなのか。普段から結構来るのか?」
「そうだね、週4ぐらいで通っているよ」
「大学生で蕎麦屋の常連って珍しいな。何か特別美味しかったりするのか?」
「この店がすごいのは麺の喉越しだね」
「喉越し?」
「そう、喉越し。他の店とは比較にならないほどツルツルしていて、その喉越しがたまらないんだ」
「そうか...」
高山はなぜか残念そうな顔をしていた。城谷はどうしてそんな顔になったのかを尋ねようとしたが、
「2名様、どうぞー!」
自分たちの番がやってきたため、その質問がされることはなかった。
店内に案内された2人は席につくなり、蕎麦を2人前注文した。
すぐにその蕎麦はやってきた。
城谷は、腹が減っていたこともあり、すぐさま食べ出した。
麺をすすりながら、彼は目の端で、高山が鞄から何かを取り出す様子を捉えた。
気になり、高山の方を向くと、彼は粉が入った容器を手に持っていた。
そして、それを蕎麦に振りかけ始めた。
七味でもかけているのか?いや、でも卓上にそれは置いてあるし、わざわざ持ってきてまでかけるものではないしな。じゃあ一体何をかけているんだろう?
城谷は粉の正体について思考を巡らせたが、一向に答えが思いつかないので、城谷に直接訊くことにした。
「ねぇ、何を蕎麦にかけてるの?」
「あぁ、これはマサツだ」
「マサツ?何それ?東南アジアの香辛料?」
「いや、違う。お前も知っているものだぞ」
高山はそういうと、手に持っている容器のラベルを見せてきた。
そこには、手書きで「摩擦」と書かれていた。
それを見た、城谷は漢字として何が書かれているのかは理解できたが、その漢字の意味が自身の知っている内容と一致しているかどうかを確認したくなった。
「え、摩擦って、あの摩擦?物理学でいう摩擦で合ってるよね?」
「もちろん合っている。個体の表面が互いに接しているとき、それらの間に相対運動を妨げる力がはたらく現象のことだ」
「いや、まぁそんなに正確に言われなくても分かるけどさ。どうして摩擦が粉末状になってるんだよ!?」
「これはな、摩擦力を増幅させるための粉だ」
「何それ?おかしくない?」
「そうだな、お前の言う通り、この粉の名前は正確には摩擦ではないな。摩擦はあくまで現象の名前だから、摩擦係数増幅粉末の方が正しいな」
「いや、名称がおかしいって言った訳じゃなくて。そんな粉を持ち歩いているのがおかしいってことだよ」
「あぁ、そういうことか。確かにちょっと珍しいかもな」
「ちょっとどころじゃないよ、大分珍しいよ。というか、どうしてそんなものを振りかけるんだよ」
「喉越しが良いって教えてもらったからだよ」
「え?喉越しが良いこととその粉が何の関係があるの?」
「喉越しが良いってことは、それだけ口腔内に存在する時間が短いってことだろ?それじゃあ損じゃないか。せっかくお金払っているんだから食はなるべく長く堪能したいんだ」
「んー?まぁその理論は何となく分かるような分からないような」
「まぁ、個人の嗜好だからな。分からなくても仕方がない。この粉をかけることで、麺が持つ摩擦力は強くなり、より長く口腔内に止まることができ、俺の嗜好に叶う蕎麦と化す訳だ」
「喉越しをその粉で台無しにしてるってことか!?」
「まぁ、そうだ。台無しはちょっと言い方が悪いが、概ねそういうことだ」
「そんなことして何がいいんだよ...」
「この感覚を持っている人間は俺だけって訳でもないと思うぞ。例えばカップ焼きそばを窒息になりそうなくらい口いっぱいに頬張り、それが喉を圧迫したながら通り過ぎていく感覚を良しとする人もネット上にはいるみたいだしな。あまり真似はしない方が良いと思うが」
「そんな奴いるのかよ」
「お前も試してみるか」
「いや、いいよ。せっかくのツルツル麺だし」
「そうか...」
「でもその摩擦が増すことは気になるね」
「おお!そうか!気になるか」
高山は嬉しそうに目を輝かせ、粉をおもむろにコップの水へ混ぜ始めた。
「お、おい!何してるんだよ」
「いや、お前に試してもらおうと思ってな。ほら飲んでみろ」
そう言って高山はすこし濁った水を城谷に渡した。
「おぉ、ありがとう」
城谷は明らかに戸惑っていた。
「ほら、飲んでみろよ」
高山は城谷にそう促した。
躊躇いながらも城谷は覚悟を決めると、その粉が溶けた水を飲み始めた。
城谷の舌が得た感触は明らかに水ではなかった、それよりと明らかにひっかかる感じがある、その液体が喉を差し掛かる頃には、その感触について経験をもとに表現することができた。
「スムージーだ!」
高山は声高らかにそう言った。
「これ、スムージーみたいな喉越しがする!無味なのに。何か気持ち悪い」
「まぁ、初めてだからな。慣れが必要だ」
「別に慣れたいとは思わないけど」
「慣れてくると、もっとかけても大丈夫になるぞ」
そう言って高山は大量の粉を蕎麦にかけ始めた。
「そんなにかけて大丈夫か?」
城谷は高山の様子を心配そうに見つめる。
そんな城谷を気に留めず、高山は蕎麦をすすった。
いや、結果から考えると、正確には咥えたと言った方が正しいだろう。
あまりの摩擦力に、麺は両唇にぴったりとくっついていた。
「んー、んーーーー!」
高山は喋れなくなっていた。
口をすぼめ、必死に吸おうとしていた。
一生このまま、麺を口に咥えたまま生活しなければいけないと悟った高山は静かにその目を閉じた。
「いや、麺に対して垂直方向に上下の唇を離していけば取れるだろ」
城谷は高山にそう言った。
すると、高山はゆっくりと両唇を動かし、何とか麺の縛りから抜け出した。
「ふー、危なかった」
「全く、流石にかけすぎだよ。運悪く喉にまで麺がいっていたら終わりだったぞ」
「あぁ、危うく死ぬところだったよ」
「というか、摩擦力を強くする粉があるってことは、その逆の、喉越しをめちゃくちゃ良くする粉も作れたりするのか?」
城谷は高山にそう質問した。
「あぁ、もちろんだ。正確にはそっちを先に作った」
「どうして?お前は喉越しなんていらないんだろ?」
「祖母を救うためだ」
「お前のお婆ちゃんと何が関係あるんだよ?」
「祖母は今年の正月に餅を喉に詰まらせて死にかけたんだ」
「え?」
「その時に俺は誓ったんだ。二度とこんなにも辛い思いをさせないってな」
「そうだったのか...」
「そして、明日はその実行日だ。俺は必ず祖母に、餅を喉に詰まらさずに完食してもらう!」
「いや、過去に詰まった経験があるなら、お前のお婆ちゃん、餅なんて食べようとしないだろ」
「それもそうだな... じゃあ俺が試すか」
「粉、間違えるなよ」
「え?」
「だから、摩擦力が大きくなる方の粉をかけて、食べたらただの自殺と一緒だぞ」
「確かにそうだな。気をつけるよ」
蕎麦屋を後にした2人は、他愛もない話をしながら研究室へと帰っていった。
「なぁ、高山」
「ん?何だ?」
「さっきの摩擦力が大きくなる粉なんだけどさ、どうやって作ったか教えてくれない?」
「あぁ、もちろんいいぞ。でも摩擦力が小さくなる方の粉については知らなくていいのか?」
「うーん、まぁそっちは別にいいかな」
そして、高山は摩擦力が大きくなる粉のレシピを記したノートを城谷へと手渡した。
10年後、高山はその後も摩擦力を小さくする粉について研究を進め、それは薬を服用する際の補助薬品として実用化を果たし、薬を飲むことが難しくなっている高齢者の健康に大きく貢献することとなった。
一方、蕎麦にかけていた摩擦力を大きくする粉は、何者かの手によって裏社会へと流されるようになり、証拠が残りにくいため裏社会において暗殺道具として重宝されるようになった。
最初のコメントを投稿しよう!