マンションの5階から

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   僕が住んでいる部屋は、夜になると電話が鳴り出す。固定電話は無く、中古で購入した一台のスマートフォンだ。  二十二時十七分。その時間はこれからも永遠に変わることはなく、決まった時間に鳴り出した電話をとるために僕はベランダへ出た。  電波環境が劣悪な僕の部屋は、マンションの五階にある。L字型になるように別棟と重なる部分があり、僕の部屋のベランダからはその別棟の壁しか見えない。閉ざされた景色。  いつものように、星空の見えないそのベランダで電話をとる。  電話の向こうからは、  ザザッ…と波の立つような  ノイズが聴こえている。  数秒後、電話は突然  切れてしまった…  代わりにすぐ隣の角部屋のベランダから、隣人が呼び掛けてきた。 「こんばんは。」  隣人は喫煙者だ。ベランダの転落防止の柵に寄りかかり、片手は煙草を指の間に挟んでいる。 「こんばんは。」  と僕は返す。  彼に会えると、僕は嬉しい。  僕は大学に通いながらアルバイトをしている。変わり映えの無い日々を作業のような感覚でこなしていく僕にとって、この二十二時十七分のベランダは特別な場所だ。  不思議とこれだけ閉塞感を感じる場所にいて、この場所を離れたいと思うことは無い。  ここが世界の中心のような気さえするのだ。星の巡りをここから眺めているかのような。 「どうですか、調子は。」  というのは、隣人の口癖だ。いつもこの言葉から会話が始まる。僕の隣人は少し年上の若いお兄さんで、明るい茶髪にブルーヘイズのプルオーバーを着ている。 「いつも通りです。」  僕は空気だ。  この世界は一日くらい僕がいなくても、誰も困らないように出来ている。僕からすれば世界は僕の主観で進むけれど、端から見れば僕は誰かの人生のエキストラでしかない。  切れた電話を握ったままで、僕は窓に背を寄せた。電話はいつもノイズと共に数秒で切れるので、僕は電話が切れることも、そうすると隣人から挨拶があって会話が始まることも知っていた。  いつもと同じ時間に、  いつもと同じような  工程が流れる…。  気温は低いが上着を羽織るほどじゃない。 「今日もいつも通り大学に行って、いつもすれ違う女の人が、上半身だけの男の人を背中にくっつけて歩いて来ました。  大学の駐車場にある右から三番目の青い車はタイヤの下から腕が出ていて、北館の三階の廊下でバナナのスムージーを飲んでいる大学教授の後ろには、やっぱりいつも通り昔風の格好をした人が立っていた。」  僕にはいつも、他の人には見えないようなものが見えていた。  そういう日常が、僕には当たり前に存在する。 「そういう生活は苦労するの?」  隣人はたまに煙草を口に運び、細く煙を吹き出していた。煙は真横に流れ、くるくる回って彼の周囲を取り巻いた。 「苦労はしないけれど、人を観察することが自然と身に付いてしまって、良く思われないことが多いです。」  有りがちなのは、『人のことジロジロ見てんじゃねぇよ、こら。』と言った感じのクレームだ。  お陰で僕は人と接する事に苦手意識を感じてしまう。自分が悪いので、人が嫌いになるわけではないが。 「それは悩み所だな。だけど君が他の人と同じように何も見えなくなったら…、君にしか見えないそれらの存在は、居ないのと同じことになる。それでは困る人もいるだろう。」  僕と隣人は、決まってこうして、くだらない雑談に興じるのだ。政治について熱い論争をすることもあれば、自然の尊さについて語り合う場面もある。  そういう話題は小難しくて気取った感じがするから、他の人の前でそういう話題を引っ張り出すのには抵抗を感じてしまうのだが、彼の前ではそんな事もない。 「だけど、僕にしか見えていないものなら、それが僕に見えていても、いなくても、周囲の人にはあまり影響はないのかなって思うんです。」 「それもそうだな…。それなら、君がその存在を周りの人に教えてみるってのは?  言うなればプレゼンだな。君はいつも仕事に行くけど、そういう仕事はしないのか?」 「僕は販売業なんです。それに、人前で喋るのが下手だし、動画を作るのも上手くない。」 「プレゼンの成功には、話し手の実力だけじゃなく聞き手の理解力も必要になる。  自分一人で完璧な成功を作り出せるわけではないから、緊張する必要はないさ。  成功した時は自分の表現力に自信を持って、失敗した時は相手の理解力が足りなかったんだと思えばいい。」 「今はそれほど理解力が必要じゃない時代だから、受け取り手の能力を期待するのはどうだろう。  学校の勉強もうんと学習しやすいシステムになったし、活字ばかりの本を読まなくても動画というコンテンツが発達したし。  それに、わからない事があればその場で端末で調べられるから、学ぶことすら必要ない時代が今に来るかもしれない。社会人になる前に、指先でボタンを押す方法さえ覚えればいい。」 「それじゃあ、『ばぶ』だな。」  彼は赤ん坊のことを『ばぶ』と言うのだ。 「毎日テレビで、動く絵と音だけ聴いたり見たりして、わからないことはぜんぶ自分じゃない誰かに聞けばいいってわけだ。」 「誰かというか、『何か』だ。」 「言えてるな。…そうなると、読解力も理解力もそれほど必要とされなくなる。テストでいい点取れなくたって気にすることもない。」 「時計が読めなくても、数字で表示されるし。お金が数えられなくても、電子マネーで勝手に引き落とされる。  そうなると、学校で時計の読み方を教わったり、お金の種類を覚える時間をとらなくて済むから、その時間をもっとべつな事に使えるようになる。」 「その時間でボタンの押し方を覚えるのか?」  彼がおどけた調子でそう言うので、僕は困ったような笑い顔で「うぅ~ん…。」と曖昧に返すしかなかった。 「俺がここに住んでいた頃は…、」  と彼が切り出した。  彼は自分の事を語るとき、いつもこう言って切り出すのだ。 「もっと不便で、もっと学ぶのに時間がかかったけれど、それを思い遣りや想像力で賄っていた。人の気持ちを、想像して思い遣る。今はもう、どうやっていたのか覚えていないけれど。」 「それはもう必要なくなったんですよ。顔が見えない場所なら、人を傷つけるような事を簡単に言えるし、それで相手が傷ついたとしても、本人に謝罪する必要もない。発信を消したり、アカウントを消したりすれば、それで済んだことになるんです。」 「誰もがそれに納得なのかい?」 「いいえ。でも、個人の意見は圧し殺される。今は、『多様性』という意見が優遇されるんです。  例えば性別の問題も、個性だと思い遣るより、はっきりと区別をつける方がいいと思われるようになりました。男と、女と、『その中間の性』が設けられて、その三つのどれかに当てはまらないといけない。」 「それは『多様性』じゃなくて『欧米化』だ。」  彼にそう言われると、僕も『多様性』と『欧米化』の区別がついている自信は無くなってくる。 「これからは『多様性』という名の『個人が侵害される』時代が来るのでしょうか?」 「時代は随分と変わったんだな。いつの時代は良かったとか、今と比べてどうだとか、そういうことを言いたいんじゃなくて。ただ変わったんだなぁとしか思えないんだ。」 「ちょっと切ないですよね。でも、わかる気がします。」  それから二人は、同じタイミングで少し黙った。  僕にも彼が言うような気持ちがある。最先端技術で便利になっていく生活は素晴らしいと思うのに、不思議と今が一番いいんだと割り切って言う気にはならない。  それぞれの時代に、それぞれの良さや悪さがあるような。自分がこの時代に生まれたことが、幸か不幸もわからない。 「まぁ時代はどうあれ思うことは、君と話していると楽しいということだ。出来れば同じ時代に生まれたかったよ。」 「それ僕も同じ事を考えてました。」 「そうすれば俺も、こんな場所から…」  そして  彼は姿を消した。いつもと、  同じ時間に。  まるでこの瞬間に彼の人生は  そこで  終わってしまったかのようだ。  僕はしばらく風に当たっていた。さもなければ会話の余韻に浸っていたのかもしれない。  或いはこれから訪れる時代について、期待とも失望ともつかない感情が胸を渦巻いていて、それを静めようと呼吸を落ち着けていたのかもしれない。  僕が生きている時代は、随分と生きやすくなり、とても生き辛くなった。これは文章として間違っているかもしれないが。  何か一つでも特技があれば、生業を得るのが難しくない時代になった。その代わり、人の価値観は『多様化』し、自分と違った価値観を持つ人が目立つようになった。  そうすると、健康な心で毎日を過ごすことは、少しずつ難しくなっていく。  とはいえ、僕には日常がある。他の人には見えない『彼』が見える日常が。  僕の部屋は両隣が空き部屋で、僕の部屋も特別家賃が安い。  隣の空いている角部屋には昔、ベビースモーカーの青年が住んでいたようだ。  今では分煙を経て禁煙が進み、僕も街中で喫煙者を見かける事はすっかりと無くなった。  この二十二時十七分のベランダを除いて。
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