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「は……せんりゃく?」
遼子はとっさに、意味が取れずに聞き返す。
ここで出てくる単語とは思えなかった。更にどういう意味かと問おうとして、しかし山科の妙に落ち着いた顔に、黙ったまま手にした携帯灰皿を縁側に置く。
「親方もそろそろ、この家の担当の代替わりを考えていたはずなんです。腰のことがなくてもね」
それは……そうかもしれない。
引退を勧めていた父親の言葉を思い出す。遼子は新しいタバコを取り出そうとするが、手が動かない。胸の内にざらざらとした感覚がある。小さな砂埃が入り込んだように、きしきしと音を立てる。
「今回、潮時だと思ったんでしょうね。そこで真柴さんに白羽の矢を立てて、●●寺さんではなくこちらに派遣した」
「私では大きな仕事はダメだということでしょう。一般家庭の植木の手入れなら誰にでも出来ます」
勢い、キツイ言い方になったが、山科は遼子のその言葉にむしろニヤリとした。
「いいえ、逆ですよ」
「……逆?」
そこで山科は「そうだ、梅ジュースもあるんですよ。マリさんが梅酒と合わせて作ってくれました。大家が下戸でしてね、飲めないもので」と、またついっと部屋に引っ込み、しばらくするとグラスを二つ手に戻って来る。
「今年はたくさん穫れたんですよ。どうぞ」
はあ、ありがとうございます。と、押されて遼子はコップを手に取る。淡い琥珀色の液体は爽やかな甘味と酸味で、少し落ち着いた。
もうだいぶ休憩時間も長引いているが、おかげで日が出て来た。
初夏の太陽に照らされて、小林家の野放図の庭は瑞々しく美しかった。
「こんなことを言っては失礼かも知れませんが、歴史的建造物の庭木の手入れは、ルーティンというか、様式美でしょう。既に完成しているお庭で、もう夢窓疎石も雪舟も居ませんし、これから改築が行われるわけではない」
むそう……? と言葉を取り落とした遼子がぽかんとしていると、これはね、と美貌の物理学者はタバコをくゆらす。
「保守と開発の違いです。仕様が確定している仕事は誰にでも出来ます。誰でもいいんですよ」
だれでも、いい。
遼子は声を出さずに繰り返す。しかし山科が続けた言葉に、引っ掛かるものを感じて顔を上げる。
「そもそもこのお仕事で女性は珍しいでしょう。だからこそ、そこに意義がある」
「でもそれは……」
山科は、わかっている、というように手を上げて遼子を押しとどめる。
「性差が能力差になるわけではないです。そんなことは自明の理ですが、いまだ偏見は根深い。男性も、もちろん女性も。その上で、どうしようもない差がある。体格差と筋力差です」
ズバリ言い当てられて、今度こそ遼子は絶句した。
どうにもならない差に立ち尽くすあの瞬間を、思い出すのは痛い。
「でも、見える景色が違うからこそ、気付くことがあるんです」
なにを…? と遼子が見詰める先で、山科は美味そうにタバコを吸った。
「小林家は背が高いんですよ、全員。小林先生が一番、背が低かったようです。それで当代が継いで水回りをリフォームしたとき、キッチンの高さを上げたんですね。でもマリさんは小林先生と同じくらいの背丈で、あの台所だとちょっと高いんだそうです」
山科は部屋の中を振り返る。その先に新調されたキッチンがあるのだろう。
「マリさん、かなりの頻度で料理してくれますからね。最初は毎回、使いづらい!って言ってたんですよ。で、今どうしてると思います?」
「えっ……が、ガマンする?」
「真柴さん真面目ですねぇ」
あはは、と山科は笑いながらタバコをもみ消した。
「踏み台を用意する案が出たんですが、キッチンってけっこうな広さですから、そんな幅広い踏み台は無理だってことで、厚底のスリッパを用意したんです」
「あつぞこ?」
最近そういうのあるんですね、いい世の中です、と真剣に頷く山科に、遼子の手のコップで氷がカラリと音を立てた。
たしか、厚めのキッチンマットと合わせて、10cmほどかさ上げになったんですかね。
山科の深い声は、庭の緑と同じ色をしていた。
「で、マリさん最初に、景色が違うって。まるで別の家みたいだって言ってましたよ」
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