1人と1台の物語

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「そんな条件、いくら中古車でもありませんよ」 スーツの男は、いかにもめんどうくさそうにそう言いながらタブレットをスクロールした。 「まあ、こんなところですかね あと何キロ走れるかは知りませんが」 そこに表示されたのは、40年前に販売されていた走行距離50万キロの中古車だった。 「今どき自動運転もついてないですし、部品もないので壊れても直せませんよ」 それでも結局、古ぼけたシャツに身をつつんだ老人は書類に判を押した。 納車の日、やはり変わらずめんどうくさそうなスーツの男は、わずかな紙幣を受け取ると、鍵を差し出し、こう言った。 「簡単に洗車はしましたが他はなにもしてないので、まあご自分でやっておいてください」 老人は鍵を受け取るとそのまま店を出て、車のドアを開け、エンジンをかけた。店員が席を立つことはなかった。 「お久しぶりです。30年ぶりですね。」 老人はどこからともなく聞こえてきた声に驚き、何も言えずにいると、 「覚えていないでしょうか。あの嵐の日に、初めて出会ったことを。そして、突然別れたことを。」 ふっと記憶が蘇った。 「まさか...昔喋る車に乗っていたが...あの時の......」 「その通りです。思い出していただけました?」 そこからその車は、男と別れた30年のことを話し始めた。 借金取りに連れていかれ、遠く離れた中古車屋に売られたこと。そこで優しい青年に出会ったこと。その青年とともに日本全国を旅したこと。世の中のどんな車よりも大切にされたこと。その青年とも突然の別れが来たこと。そして今の中古車屋に売られたこと。 そして今、最初の持ち主である男に再会できたこと。 老人は泣き出した。その涙が後悔なのか、感動なのか、それは老人自身にも、車にも分からなかった。 しばらくして、1人と1台は帰路についた。 30年前、男と車が別れた家よりも小さく、みすぼらしい家に。 それでも、1人と1台は30年前よりも、そして他の誰よりも幸せだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加