公園の忘れんぼさん

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 数か月間、大きくなっていくお腹を抱えて一人でこの道を歩いていた。昔から運動が嫌いで、自分のためにウォーキングをしたことなんて一度もなかったのに。  あれから三年が経とうとしていた。妊娠中に一人で黙々と歩いた道を、今は娘と一緒に歩いている。  人混みも、‘ママ友’も苦手で、徒歩圏内にある大型のショッピングセンターにも子育て支援センターにも行く気が起こらない。でも第一子である娘と、専業主婦である私の生活は朝から晩まで二人きり。家から出なければ、夫が帰宅するまで大人と会話をすることはない。そんな生活をずっと続けていると、どれだけ可愛い娘でも時々息が詰まりそうになった。だから、妊娠中と同じようにただ近所を散歩した。散歩をしていると必ず誰かとすれ違う。そんな名前も知らない人たちとほんの少し挨拶や会話をすることで、私は心の平穏を保っていたのだと思う。   「どっちに行く?」 アパートの駐輪場を越えて、毎回必ずこの会話から始まる。 「あっち。公園行くの。」 どの道を進めばどこに辿り着くのか徐々に分かってきた娘は、その日の気分できちんと道を選択している。今日娘が行こうとしている公園は、夕方になると小学生がたくさんくるけれど平日の午前中は誰もいないことが多かった。滑り台とブランコがあるだけの小さな公園だ。  公園に向かう途中にある畑に人影があった。横を通り過ぎる時に 「こんにちは。」 と挨拶をする。時々この畑で見るおじいちゃんだった。 「大根食べるか?」 挨拶も返さずそう尋ねたおじいちゃんに私が戸惑っていると 「食べる!」 と娘が答えた。 「よしよし。ちょっと待っとれ。」 おじいちゃんはにこにこ笑って、すぐ足元にある大根を引き抜いた。立派な大根だった。そのまま畑の奥に歩いて行ったおじいちゃんは水道で泥を洗い流して、真っ白になった大根を持って戻って来た。 「ほれ、うまいぞ。」 差し出された大根を受け取ってお礼を言うと、おじいちゃんは娘に手を振ってまた畑の奥へ歩いて行った。  大根を右手に持ち、娘と左手を繋いで公園へ向かう。必要最低限の物だけが入った小さなショルダーバッグと娘の水筒しか持っていなかったから、大根はそのまま持ち運ぶしかなかった。次の散歩からは、大きめのビニール袋を念のため持って行こうと思った。  神社の裏を通ると公園が見える。娘は少し早足になる。 「今日は滑り台が先!」 嬉しそうに娘がそう言った時、公園のベンチに誰かが座っているのが見えた。 「ママ、誰かいるね。」 娘も気づいたらしくベンチを指さす。近づいて行くと、見た事のないおばあちゃんだった。 「こんにちは。」 ベンチは公園の入り口のすぐ隣にある。公園に足を踏み入れ、先客であるおばあちゃんに挨拶をすると 「あら、こんにちは。」 と明るい声で挨拶が返って来た。小柄で、パーマのかかった白髪混じりの短い髪。半袖を着ている私達とは違い、淡い緑色の薄い長袖ブラウスを、一番上までしっかりとボタンを留めて着ていた。 「こんにちは!」 娘が元気よく挨拶すると、おばあちゃんはにっこりと笑った。 「おりこうさんね。いくつ?」 「二歳!」 「そう。これくらいの時期が一番可愛いわね。」 そう言っておばあちゃんは私の顔を見た。娘が滑り台の方へ走り出す。 「ありがとうございます。」 お礼を言って娘を追いかけようとすると、 「それ、ここに置いていったら?」 と呼び止められた。‘それ’とはもちろんこの大きな大根のことだろう。 「立派な大根ね。この辺りに八百屋さんなんてあったかしら。」 「いえ。ここに来る途中の畑で頂いて。」 そう答えておばあちゃんの隣にそっと大根を置いた。 「そう、それは素敵ね。」 おばあちゃんはにっこり笑った。  滑り台とブランコを何度も行き来して 「ママ、お茶飲みたい。座ろう。」 と娘がおばあちゃんのいるベンチの方へ走り出した。ずっと座っていたおばあちゃんは、娘が近づいて来ると嬉しそうな顔をした。 「座っても良い?」 娘が尋ねると 「どうぞ、どうぞ。」 とおばあちゃんは答えた。娘は大根をベンチの端に動かして、おばあちゃんと大根の間に座った。水筒を渡すと勢いよく飲み始めた。 「ちゃんと座っておりこうさんね。いくつ?」 おばあちゃんは隣に座る娘を見ながらそう尋ねた。 「二歳だよ。」 娘が答える。 「そう。これくらいの時期が一番可愛いわね。」 そう言っておばあちゃんは私の顔を見た。 「その大根はあなたの?私が買って来たのだったかしら。」 娘の隣に置いてある大根を不思議そうに眺めるおばあちゃん。ふと遠い記憶の中に、この繰り返される不思議な会話があったような気がした。  滑り台とブランコに満足した娘を連れて公園を後にした。おばあちゃんはまだベンチに座っていたいらしく、にこやかに私達に手を振った。おばあちゃんがこの後一人で家まで帰ることが出来るのか心配だったけれど、私も娘と一緒におばあちゃんに手を振った。 「ママ、あのおばあちゃんおんなじこといっぱい言っていたね。」 二歳の娘が違和感を覚える程、あの後もおばあちゃんは娘に「いくつ?」と尋ね、「これくらいの時期が一番可愛いわね。」と言った。大根が誰の物なのかも何度も尋ねられた。 「そうだね。さっきのおばあちゃんはね、忘れんぼさんなんだよ。」 「忘れんぼさん?」 「そう。お話したことも、ちょっと経つと忘れちゃうの。たぶんもう、ママとあなたのことも忘れちゃっていると思うよ。」 「あんなにたくさんお話ししたのに?」 娘は驚いた顔をする。 「そうね。でもね、そういう病気なの。」 「病気?おもちゃが貰える病院に行ったら治るの?」 娘が行く小児科では、診察後小さなおもちゃが一つ貰える。 「病院に行っても治らない病気なんだよ。」 娘は今日、病院に行っても治らない病気があることを初めて知ったのだと思う。 「ずーっと病気?」 頷いた私に、娘は不思議そうな顔をした。    貰った大根は人参と一緒に煮物にした。まだ冷蔵庫に調理されていない大根が半分以上残っているけれど。 「ママ、今日のお昼ご飯はなあに?」 今日は昨日より遅めに外に出た。少しお腹が空いているのか娘は出発前から昼食の話をしている。 「昨日の大根さんと人参さん。あとは・・・うどんが良い?オムライス?」 「うどんかなー。ちゃんとね、大根さんと人参さんもいっぱい食べるよ。」 「うん、いっぱい食べようね。」  娘は昨日と同じ道を選んでまた公園に向かった。畑に昨日のおじいちゃんがいたらお礼を言おうと思ったけれど今日はいなかった。畑を通り過ぎて、今日は神社の裏ではなく正面の方から公園に行く道を娘は選んだ。神社の入り口と用水路に挟まれた狭い道。神社の外周に沿うように歩いて角を曲がると、公園が見える。公園へ向かう途中に公衆電話があって、そこには公園の方を向いて立っている中年の女性がいた。膝が隠れる長さの茶色のスカートに、白いブラウスを着た上品な雰囲気の女性は、待ち合わせをしているようにも散歩をしているようにも見えなかった。 「こんにちは。」 女性の隣を通り過ぎる時に挨拶をすると、女性は驚いた顔をした。 「あ、こんにちは。」 少し挙動不審に挨拶を返した女性は、私達がその場を離れて公園に向かっても、まだ公衆電話の前に立っていた。 「あ、忘れんぼさんのおばあちゃんだ!」 娘が公園のベンチに座る人影を指さした。  公園に入っておばあちゃんに挨拶すると 「あら、こんにちは。」 と昨日と同じ明るい声で挨拶が返って来た。 「こんにちは!」 娘の大きな声ににっこりと笑って 「おりこうさんね。いくつ?」 と尋ねる。 「二歳だよ。」 「そう。これくらいの時期が一番可愛いわね。」 娘もおばあちゃんも昨日と全く同じ会話をする。娘はブランコの方へ走って行った。娘は背もたれのないブランコに座って乗るのが怖いらしく、いつも座面にお腹をつけて、まるで干された布団のような格好でゆらゆらと揺れる。地面を向いたまましばらく揺れた後、 「アリさん!」 と声を上げて娘はブランコを下りた。まだ揺れているブランコのすぐ前でアリを見ようとしゃがんだ娘の頭に、ブランコの座面が当たった。それほど勢いよく当たっていないけれど、驚いた娘は大きな声で泣き出した。ベンチの横で様子を見ていた私が娘の元へ向かおうとすると、おばあちゃんが心配そうにベンチから腰を上げた。  泣いている娘を抱えてベンチの方へ戻ると、腰を上げたままのおばあちゃんが心配そうな顔をしながら、 「ここへお座りなさい。」 と私達をベンチへ座るよう促した。私は娘を抱っこした状態でベンチの端に座った。私たちが座った後で、おばあちゃんもまたさっきと同じ位置に座った。 「痛いの治った?」 グスグスと鼻を鳴らす娘にそう尋ねると、落ち着いて来たのか小さく頷いて顔を上げた。 「強いね。おねえさんだ。」 そう言うと、娘は手で涙を拭いて笑った。 「お絵描きするからママ見ていて。」 私の上から下りた娘は、ベンチの前に落ちていた木の枝を拾って地面に絵を描き始めた。 「すみません、お騒がせして。」 私がそう言うとおばあちゃんは優しく笑った。 「私にも娘がいてね。小さい頃は公園に一緒に来たわ。」 「そうなんですか。」 「孫もいてね。もう皆中学生や高校生なのだけれど。この公園にも連れてきたわ。」 おばあちゃんが今‘中学生や高校生’だと言うお孫さん達は本当にそれくらいの年齢なのか、それともおばあちゃんが‘忘れんぼさん’になる前の記憶なのかは分からない。 「ママ見て。お団子。」 地面に歪な丸を三つ並べた娘は得意げな顔をする。スーパーに売っている三色団子が最近の娘のお気に入りだった。 「可愛いわね。いくつ?」 「二歳です。」 「これくらいの時期が一番可愛いわね。」 きっとおばあちゃんは、娘が何歳の時に出会っても同じように言ってくれるのだろう。 「お家はこの辺りですか?」 「えぇ、すぐ近くなの。家の中ばかりじゃいけないからね。‘散歩にでも出かけたら?’って娘が。」 すぐ近所で家族もいて家の場所も分かっているのなら大丈夫だろうか。遠い記憶の中の、父と母が血相を変えて外へ飛び出して行った時の光景が浮かぶ。 「あ、ご飯の時間だ!」 十二時のサイレンの音を聞いて娘が立ち上がる。 「ママ、お腹空いた。大根さんと人参さんとうどん食べに行こう。」 昼食のメニューをしっかりと覚えていた娘は、絵を描いていた木の枝を投げ捨ててそう言う。 「あら、良いわね。おうどん食べるの?」 おばあちゃんが優しく言うと娘は元気よく頷いた。 「娘さんがお昼ご飯用意して待っているんじゃないですか?」 なんとなく心配で、この場から一緒に離れたかった。おばあちゃんも家に帰るきっかけになるようにそう言ってみた。 「そうね。私も帰ろうかしら。」 おばあちゃんは腰を上げてにっこりと笑った。公園を出ると私達は左へ、おばあちゃんは右へ歩き出した。 「お話してくれてどうもありがとう。」 お辞儀をしてそう言ったおばあちゃんはゆっくりとした足取りで歩いてく。 「こちらこそありがとうございました。」 私も娘を連れて歩き出す。来た道ではなく、最短で家に向かう神社の裏を通る道へ。最初の角を曲がった所で、私は娘を抱っこしてこっそりとおばあちゃんの後姿を見た。おばあちゃんの姿が見えなくなるまでそうしていると娘が 「お腹空いたよ。」 と急かした。 「ごめんね、帰ろうか。」 娘を下ろして手を繋ぐ。私達も家へ向かった。
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