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それから公園へ行くと時々おばあちゃんと会うようになった。会う度にいろいろな話をした。夏の暑い日は行けない日も多かったけれど、比較的涼しい午前中の早い時間に行けば、おばあちゃんもベンチに座っていた。
夏が終わり、過ごしやすい季節がやって来た。
「可愛いお洋服ね。」
いつも通りの会話を済ませた後、おばあちゃんは娘の着ている洋服を見てそう言った。
「これね、うさぎなの。」
娘は得意げに話す。先日私の母に買って貰った、お気に入りの長袖Tシャツだった。おばあちゃんと初めて会った日は半袖を着ていた。あれからもう四カ月近くが経っていた。
「昔ね、お家にうさぎがいたの。」
おばあちゃんは娘にそう話した。
「うさぎ?お家の中に?」
「いいえ。お家のお庭で。娘がね、学校にいるうさぎが可愛いって毎日のように言うから。お家にもうさぎに来て貰ったの。」
「いいなぁ。うちにもうさぎ来ないかな。」
しばらくおばあちゃんと娘は楽しそうにうさぎの話をしていた。絵本やイラストでしかうさぎを知らない娘は、本物のうさぎを目の前にしたらどんな反応をするのだろうなと興味が湧いた。それから娘はいつもと同じように滑り台とブランコをしに走って行く。
「可愛いわね。いくつ?」
「二歳です。」
「これくらいの時期が一番可愛いわね。」
この日二回目になる会話。
「ママ、お絵描きするから見ていて!」
滑り台の下で拾った木の枝を持って娘が戻って来た。
「見て、うさぎだよ。」
なんとなく顔があって耳がある物を地面に描いた娘。
「可愛いね。お洋服と同じだ。」
そう言うと娘は嬉しそうに笑った。
「おばあちゃんのお家にいたうさぎはどんなうさぎ?」
娘がおばあちゃんにそう尋ねると、おばあちゃんはキョトンとした顔で首を傾げた。
「あなた、どうして私の家にうさぎがいたことを知っているの?」
その質問に今度は娘がキョトンとした顔で首を傾げた。
娘は以前からゴミ収集車が苦手だった。この町の収集車は‘夕焼け小焼け’の音楽を鳴らしながら走るのだけれど、家の中にいても散歩中でも遠くからあの音楽が聞こえると慌てて私の所に駆け寄って来る。
「ママ、ゴミ収集車来た。」
滑り台の階段を二段目まで上った娘は、夕焼け小焼けが聞こえると慌てて下りて走って来た。
「どうしたの?」
娘の強張った顔を見て、ベンチに座っていたおばあちゃんが心配そうに尋ねた。
「なぜかゴミ収集車が苦手で。音が聞こえるといつもこうなんです。」
私は足にしがみ付く娘の頭を撫でながら答えた。
「そう。誰にでも苦手な物はあるわよね。」
「おばあちゃんもあるの?」
娘が小さな声で尋ねた。
「私はね、なすが苦手。」
おばあちゃんは少し恥ずかしそうに答えた。
「なす、おいしいよ。」
娘は首を傾げてそう言う。
「あら、あなたは強いわね。なすが平気なら、そのうちゴミ収集車も平気になるわ。」
なんの根拠もないけれど、そう言われた娘は私の足に巻きつけていた腕の力を少し抜いて顔を上げた。
「きっと、大丈夫よ。」
にっこりと笑っておばあちゃんはそう言った。
肌寒くなって来て、長袖の上に上着を羽織って出かける季節がやってきた。多いと二日に一度は着ているうさぎの長袖Tシャツを着た娘は、うさぎが隠れるのが嫌で上着を着ないと駄々をこねた。
「うさぎさんが寒いって。寒くて風邪ひいちゃったらかわいそう。」
そう言うと娘は渋々パーカーを羽織って、うさぎが風邪をひかないようにファスナーをしっかりと閉めた。
「こんにちは。」
おばあちゃんは厚手のカーディガンを羽織って、膝かけをしっかりと掛けていた。
「あら、こんにちは。」
「こんにちは!」
「おりこうさんね。いくつ?」
「三歳!こないだね、お誕生日だったの。」
娘は得意げにそう言う。
「そう。それはおめでとう。これくらいの時期が一番可愛いわね。」
娘はよく会う顔馴染みのおばあちゃんに自分の年齢が増えたことを伝えたつもりだったのだろう。でもおばあちゃんからすれば私と娘は今日が初対面。一緒に過ごした時間は同じはずなのに、思い出の数は全然違う。
娘と並んでブランコに乗る。腹這いでしかブランコに乗れなかった娘も、私が隣のブランコに座っていれば、一人で座って乗れるようになった。ブランコから下りて、娘がお茶を飲むためにおばあちゃんのいるベンチに戻る。自然と隣に座る娘を見ておばあちゃんはほんの少し戸惑いながらも、優しく笑ってくれた。私も娘の隣に座った時、近くから便臭がする気がした。娘がうんちをしてしまったのかと思い、お茶を飲み終えた娘を立たせてパンツの中を覗いた。
「ママなあに?おねえさんパンツだから、なんにも出てないよ。」
夏にオムツが外れた娘は、いまだに時々パンツの中を確認されることが不服らしい。
「ごめん、ごめん。おねえさんだもんね。」
娘は水筒を私に渡して、滑り台の方へ走って行った。娘ではないということは、たぶん臭いの元はおばあちゃんだろう。しばらく経っても臭いは消えなかった。膝かけをしているからズボンが濡れているかどうか確認出来ない。おばあちゃんは気付いていないのか、さっきまでと変わらない表情で遊んでいる娘を眺めていた。時間はまだ十時半。私と娘が帰ると言っても、おばあちゃんはまだしばらくはここで過ごすのだと思う。放っておいても誰も私を責めることはないと思う。でも放っておけなかった。
「…あの、」
話しかけた私におばあちゃんは首を傾げてこっちを向いた。
「お家はこの辺りですか?」
「えぇ。すぐ近くよ。」
「ごめんなさい、私トイレに行きたくて。お借りすることって出来ますか?」
実際にこんな風に自宅に行こうとしたら、きっと私は不審者だろう。もちろんトイレを借りるつもりはない。ただおばあちゃんを家まで送り届けたかった。
「えぇ、いいわよ。行きましょうか。」
おばあちゃんは何の疑いもなくそう言って、立ち上がった。ベンチは汚れていなかったけれど、おばあちゃんが立ち上がった瞬間臭いは強くなった。私は娘を呼んで、おばあちゃんと一緒に公園を出た。
「ママ、どこ行くの?」
遊んでいる途中で呼ばれた娘は不満そうだった。
「…ちょっとね。」
うまい説明がすぐに出て来なくてそう答えると、娘は首を傾げた。
「ここのね、角を曲がってすぐなのよ。」
おばあちゃんと一緒に角を曲がる。すると
「あの、」
と後ろから声を掛けられた。声を掛けて来たのは、以前神社の公衆電話の隣に立っていた女性だった。
「あの、うちの母に何か…。」
女性はそう言った。
「あら、どうしてうちに向かっていたのだったかしら。」
さっきの私との会話をすっかり忘れたおばあちゃんはそう言う。
「あの、おそらく…便失禁されていると思うんです。ご本人、気づいていらっしゃらないみたいなので、お家に帰った方が良いのかと思って。」
おばあちゃんに聞こえないように、小声で女性にそう言った。すると女性は慌てておばあちゃんに駆け寄り、近くで臭いを嗅いだ。私の言っていることが本当だと分かったようで、女性は何度も頭を下げた。
「すみません。ありがとうございました。」
おばあちゃんを連れて、女性は足早に去っていった。
公衆電話の隣で初めて挨拶をした日から、何度もあの場所で女性の姿を見ていた。きっとおばあちゃんの様子を見ていたのだと思う。あちらから公園の様子が見えるように、公園からも公衆電話付近はよく見えた。確信はなかったけれど、おそらく娘さんなのだろうなとは思っていた。そして、どうして一緒に公園にいてあげないのだろうといつも不思議だった。
それからおばあちゃんが公園にやって来る頻度は少なくなっていき、時々やって来ても以前よりボーっとしていたり洋服や手が汚れていたりした。きっと症状が進行して来たのだろうなと感じた。娘さんは相変わらず公衆電話の隣から、ベンチに座るおばあちゃんの様子をただじっと見ていた。
本格的に寒くなって来た頃から、おばあちゃんは公園に来なくなった。もちろん娘さんの姿も見ない。単に寒いから外に出なくなったのか、外に出られる状態でなくなってしまったのか。もしかしたら施設に入ったのかもしれない。娘は時々ふと思い出したように
「忘れんぼさんのおばあちゃん、いないね。」
と言う。
あれから娘は、おばあちゃんが言っていた通り、ゴミ収集車への恐怖心を克服出来た。偶々近所の収集所の前を歩いていた時にゴミ収集車がやって来た。私の足にしがみつく娘の前で作業員がゴミを収集車の中に次々と投げ入れていく。ちょうど娘の視線に気づいたのか、作業員の若いお兄さんが娘に向かって手を振ってくれた。
「ゴミ、ぱくぱく食べているみたい。」
小さく手を振り返す娘は小さな声でそう言った。
「本当だ。ぱくぱく食べていてすごいね。」
私の言葉に娘は頷いた。作業員のお兄さんがゴミの収集を終えて再び娘に手を振ってくれると、娘はさっきより大きく手を振り返していた。その顔は、もうゴミ収集車を怖いと思っている顔ではなかった。些細な出来事かもしれないけれど、娘にとっては大きな一歩だったと思う。あのおばあちゃんなら、それを分かって褒めてくれる気がした。だからおばあちゃんに伝えたかった。おばあちゃんがあの公園に来ない限り会うことは出来ないし、会えた所でおばあちゃんはあの日の会話なんて覚えていないのだけれど。
年が明けて、しばらく経ったある日。その日は一月にしてはとても暖かい日だった。寒くてなかなか行くことが出来なかった散歩に出かけ、娘は公園へ向かった。
「ママ、誰かいるね。」
娘は公園を指さす。ベンチにポツンと座っているその人に私は見覚えがあった。
「こんにちは。」
「…あ、こんにちは。」
少し驚いた様子で顔を上げたのは、あのおばあちゃんの娘さんだった。
娘と一緒に滑り台とブランコで遊んだ後、お茶を飲むためにベンチへ向かった。娘はおばあちゃんの時と同じように、自然とベンチの真ん中に座る。私は女性に会釈をして、娘の隣に座った。長い沈黙の後、私は気になっていたことを尋ねた。
「…おばあちゃん、お元気ですか?」
その言葉に女性は一瞬ビクッと体を震わせ、それから項垂れた。
「あの時は…というか、ずっとご迷惑をおかけしてすみませんでした。母は、施設に入って、それからすぐに亡くなりました。」
誤嚥性肺炎だったのだと、女性は言った。娘はベンチから下りて、地面に絵を描き始めた。
「母がここにいる間、私があそこから見ていたことはご存じでしたよね。」
私は頷く。女性も、気づかれているということに気づいていたらしい。
「…母は、とても綺麗好きな人でした。」
女性はポツリとそう言った。
「とても優しくて、怒鳴ったり暴力をふるったりするような人ではありませんでした。」
娘は以前より上手にうさぎの絵を描いていた。
「本当に、本当に、しっかりしていて、優しい母だったんです。」
女性はそう言って、両手で顔を押さえた。
全てをきちんと覚えているわけではない。今の娘よりは大きかったけれど、その頃の私はまだ小さかった。うちは四世代家族で、私の曾おばあちゃんも一緒に住んでいた。腰の曲がった曾おばあちゃんは大きな乳母車を押して畑や近くのスーパーに出掛ける。収穫したての野菜を見せてくれたり、買って来たお菓子をこっそり食べさせてくれたりもした。でもだんだん曾おばあちゃんは、同じことを何度も何度も話すようになった。出掛けた後なかなか家に帰って来られなくなることが増えていった。曾おばあちゃんの様子がおかしくなるにつれて、祖父母も父も母も苛立っていくように見えた。何度も同じ話をするけれど、曾おばあちゃんはいつだって優しかったのに。
ある日、父と母が血相を変えて家を飛び出して行った。その日曾おばあちゃんは、足の骨が折れたからと病院に運ばれ、そのまま家に戻ってくることはなかった。曾おばあちゃんが家からいなくなって、皆の苛立ちが消えていくのが分かった。私はそれが不思議で、悲しかった。大切な家族だったはずなのに。
どうして家族なのに優しくできないのだろうと、今目の前にいる、おばあちゃんの娘さんに対してもずっと思っていた。遠くから見ているのではなく、一緒に公園で過ごせば良いのに、と。でも今この人の言葉と涙を見て、ずっと一緒にいた家族だからこそ優しく出来ないこともあるのかもしれないと初めて思えた。
忘れていく人と、思い出の中から出られない人は、たぶん苦しくて一緒にはいられない。
「おばあちゃん、娘や孫をこの公園に連れて来たって言っていました。」
女性は顔を上げた。それから私はおばあちゃんがしてくれたうさぎの話や、娘とゴミ収集車の話、今までおばあちゃんとした話を女性に話した。女性は時々涙を流しながら聞いていた。変わってしまったおばあちゃんを受け入れられなかったけれど、嫌いだったわけではなかったのだと思う。それは、あの頃の私の家族も同じだったのかもしれない。
公園からの帰り道、娘と手を繋いで歩く。娘と‘忘れんぼさんのおばあちゃん’について話すことは、もうないのかもしれない。三歳の娘の記憶は朧げで、あのおばあちゃんとは違った意味での忘れんぼさんだ。今、こんなふうに散歩をして公園に通っていることも、娘の記憶にはきっと残らない。でも、あのおばあちゃんが忘れんぼさんになっても覚えている‘子どもと公園に来た記憶’は、同じように私の中にはずっと残り続ける大切なものなのだと思う。
日々成長し続けていく娘。たぶん私はこれから老いて出来なくなることが増えていく一方なのだろう。今たくさんの愛と信頼できつく繋いでくれているこの手を、もしかしたらいつか振りほどかれる日が来るかもしれない。だからせめてそれまでは、忘れても忘れても無くなってしまわない程の思い出を高く高く積み重ねていきたい。今、こんなふうに二人きりで過ごす時間にはちゃんと意味と価値がある。そう思えた。
「ママ、明日はどこに行こうか。」
「公園でも良いし、少し遠くの方までお散歩するのも良いね。」
明日も散歩日和になることを願って、娘とそんな話をしながら家へ向かった。
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