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夜 遺跡に戻る
はっとして、顔を上げる。
この場所からでは見えない雨の音が、トールの耳に響いていた。
動かない幻の手足に、肩を竦める。夢を、見た。ただ、それだけ。サシャと共に滑り落ちた、冷たい石畳と石壁に囲まれた空間に、トールはサシャのエプロンのポケットの中で大きな溜息をついた。暗い上に雨の音は聞こえるが、この場所はまだ乾いている。それだけが、幸い。
「雨、止まないね」
夢の続きのようなサシャの言葉に、目を瞬かせてサシャを見上げる。
「朝になったら、カレヴァさんかアラン教授が来てくれるよね」
[そうだな]
落ち着いたサシャの言葉に、トールは一言だけ、返事を返した。サシャはきちんと、どの辺りに紙の材料を探しに行くかを毎回カレヴァに話している。暗くなってもサシャが戻らなければ、大人達は必ずサシャを探しに来る。確信に、トールは安堵の息を吐いた。
「クロワッサン、美味しかったね」
突然のサシャの台詞に、全身が飛び上がる。
「ポテトも、テリヤキバーガーも」
まさか。そっと、辺りを見回す。真っ暗な空間に更なる影を作っていた隙間に、トールは一瞬、息をすることを忘れた。やはり、トールとサシャが、トールの世界に行ってしまったのは、古代の神々の悪戯で、……おそらく事実。
「トールの世界の美味しいもの、この場所でも作れるかな?」
[クロワッサンなら、バターがたくさんあれば]
あくまで無邪気なサシャの言葉に、焦燥を隠して言葉を紡ぐ。
「本当?」
今度、エルチェに会ったら作れるかどうか聞いてみよう。トールが頭の片隅から引っ張り出して背表紙に映したクロワッサンのレシピに、黒竜騎士団の調理場で働いていた見習い騎士の名前を出したサシャが微笑む。
耳に響くのは、やはり、雨の音。
トールの世界の図書館でサシャがメモしていた、トールの世界の『紙』のことがサシャの蝋板に残っていれば、トールとサシャがトールの世界で過ごしたことが事実だと分かる。サシャの横でくたっとしている肩掛け鞄を見やり、小さく頷く。そのメモがあれば、サシャが取り組んでいる『印刷した本』の制作も、格段に進むだろう。強くも弱くもならない雨音を聞きながら、トールはサシャの腕の中で今度は大きく、頷いた。
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