15:10 図書館

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15:10 図書館

「うわぁ!」  予想通りのサシャの溜め息に、サシャの横でにやりと笑う。  サテライトキャンパスが入っている建物のワンフロアを占拠している図書館は、大学の図書館や、郊外に位置する県立の図書館に比べれば格段に狭い。だが、サシャが日頃目にしている、サシャの世界の図書館に比べれば、広さは段違い。 「静かにな」 「うん」  いつになく落ち着きが無い様子できょろきょろと辺りを見回すサシャに一言だけ注意してから、サシャの服の裾を引っ張るようにして書棚の方へと向かう。今出ているレポートは、数学が三つと物理学、そして教養の授業で取っている歴史と文学。教育系のレポートは、来週の勉強会で書けば良い。数学は問題を解くだけだから、今日は資料が必要な歴史と文学のレポートを書こう。そこまで考えてから、トールは再び、ひょこひょこと動くサシャの白い髪を見下ろした。 「『紙』の本と『本』の本、どっちが良い?」  書棚に書かれている分類番号を確認しながら、小声で問う。サシャは今、製本師であるカレヴァと一緒に、本を作るための印刷機の作成に取り組んでいる。活字とインクは何とかなっているようだが、印刷用の紙は、まだ工夫が必要な段階。 「両方!」  予想通りのサシャの言葉に、小声で笑う。  自分用の本と、サシャのための本を吟味すると、トールは閲覧室のカウンター席の方へと歩を進めた。  目立たない、端にあるカウンター席を二つ確保し、腕の中の重い本を置く。サシャ用の本を、カウンター席に座ったサシャの前に置くと、サシャはそっと本の表紙を撫で、そして恐る恐る、ページを開いた。 「この本の紙、羊皮紙と違うね」 「『木』から作られている紙だからね」  小声のサシャに、小声で返す。 「ここにも書いてある」  トールの言葉に目を丸くしたサシャは、トールを見、そしてトールが指し示したページに目を落とした。 「……!」  自分の肩掛け鞄から蝋板と鉄筆を取り出すのももどかしいサシャの様子に、吹き出すのを堪える。丁寧にページをめくりながら蝋板に鉄筆でメモを取る様子は、閲覧室で勉強している他の高校生や大人達と変わらない。大丈夫。そう、判断してから、トールも自分の課題に取りかかった。  時折、疲れた瞳を上げて、硝子窓の外を見る。開放的な一枚硝子の窓の向こうは、ほぼ灰色。雨は、ここからでは降っているのかどうか分からない。母が貸してくれた傘があるから、雨が降っていてもトールもサシャも濡れずに帰ることができるだろう。 〈……あ〉  熱心に本を読むサシャの白い髪を見つめ、唸り声を飲み込む。もしこのまま夜が来て、サシャがまだこの世界に留まってしまっていた場合、……トールの家に泊めて大丈夫なのだろうか? 『留学生』だとサシャを認識している母は、訝しむかもしれない。 〈……うーん〉  母に嘘をつくのは心が痛むが、一晩だけホームステイとか何とかで取り繕えば、今日は何とかなるだろう。明日以降、どうするかが問題だが。そこまで考えたトールの胸は、不意に、冷たくなった。そう、これから、トールは。 「……!」  レポート用紙に踊る自分の字が、不意にぼやける。  ダメだ。今日はこれ以上、課題に取り組めない。サシャに見つからないように目の端を擦ると、トールは、まだ熱心に本を読んでいるサシャの赤みを帯びた頬を見下ろした。 「サシャ」  色の無いサシャの左手に、そっと触れる。やはり、少し熱くなっている。 「根を詰めすぎて、熱、出てないか?」 「えっ? ……あ」  本から顔を上げ、自分の頬に手を当てたサシャの戸惑いの表情に、トールは微笑みを隠せなかった。 「本、借りて帰れば良いから、今日はもう終わりにしよう」  現在の貸出冊数を頭の中で数えてから、机の上を片付ける。トールが本を借りなければ、サシャが読んでいる本を借りることができる。「一緒に勉強する」と言えば、サシャを家に泊めることに父も母も何も言わないだろう。……狭い家のどこで一緒に勉強するかが問題だが、まあそれは何とかなる。  そこまで考えたトールの脳裏が、別の思考を引っ張り出す。来週の教育学部の勉強会に持っていく、日持ちのする差し入れを買わなければ。 「買い物もしたいし」 「分かった」  名残惜しそうに本を閉じたサシャに頷き、机の上の本を腕に抱える。  蝋板と鉄筆を肩掛け鞄に戻したサシャを確かめてから、トールは腕の中の本と共に貸出カウンターへと向かった。
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