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「──父から、辞めるって聞いたよ」
小さな声で聞けば、秋保は呻くように「ああ」と返す。
「──まだ剛典が使える状態ではないので、まだ先ですけど」
「辞めて、どうするの?」
出雲からは子会社への転勤も打診したと聞いたが、それも断ったという。
「幸いお金だけは貯まってますから。ちょっと外国にでも──行こうかと思っています」
そのまま帰ってくるつもりはない、観光に携わる仕事でもしようと思っていた。
「外国かあ、いいねえ──僕もそのうち、行こうかなぁ」
は、と声を漏らして大和を見上げた。大和は優しく微笑み答える。
「秋保は家族の次に長くそばいた人だからね。その人がいなくなるなんて思った、ちょっと淋しいなって思っちゃった」
「──なによ、今更」
「あ、結婚とか思ってるわけじゃないよ」
大和の冷たいと思える言葉に、秋保はむっとする。
「別に。期待してるわけじゃ」
つんをそっぽを向く秋保に、大和は笑いかけた。
「でも死が分かつまで、そばにいるのもいいのかなって思ってる」
それってプロポーズじゃないの、と思いながら確認はしなかった。籍など入れなくても、式など挙げなくても、事実婚といった形で共に過ごすことはあるだろう。
大和の心変わりを秋保は問いただすことも責めることもしようとは思わなかった。
大和もまた、今更秋保を繋ぎとめるような真似をするつもりはない。そばにいたいと思ったは事実で、いずれ秋保が望むならばなんらかと形を取ろうかと思う。それはやはりひとり身がつらいと思ってしまったからだろうか。
☆
翌年、大和は専務の職を捨て、ハワイへ旅立った。そこで秋保が待っていると知っているのは大和の家族と、彩佳と剛典だけである。
どんな形でも、ふたりが幸せになってくれたらいいと彩佳は心の底から願った。
大和についていた剛典と田中は社長の出雲付きの秘書となる。彩佳はその前に結婚を理由に退職していた、やはり居づらいことに変わりない。いずれ子供ができたら会わせてね、と出雲は嬉しそう言う。嫌味などではなく実の孫のように楽しみにしているのだと、彩佳も剛典もわかっていた。
支えてくれる皆に恩返しをしなくては──彩佳も剛典も固く誓う。
長い片思いがようやく実を結んだ、その幸せをふたりして噛みしめる。
終
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