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プロローグ
空の大半が雲に覆われているが、澄み切った空気が心地好い、満月の夜。
神奈川県某所、とある民家の一室。
床に就いていた老人が、小さな呻き声と共に目を覚ました。体を横たえたまま首をゆっくり動かし、窓辺の方を見やる。
暗闇の中、小さな丸い光が二つ。
「よお、来たか」
老人が微笑むと、二つの光は僅かに細くなった。
「お前さんにな、話しておきたい事がある」老人は小さく咳払いをした。「医者が言うにはな、おれはもうじき死ぬみてえなんだ」
二つの光が僅かに揺れた。
「好きなように生きてきたからな、思い残す事はない……と言ったら嘘になるか」
老人はゆっくりと上体を起こすと、暗闇の中の存在に改めて向き直った。
「おれの孫娘。一番下の息子の一人娘。あの子だけが……寂しい目をしたあの子だけが心配だ」
老人が孫娘の笑顔を目にした事は数える程しかなかった。すぐに思い出せるのは無表情、あるいは俯きがちな暗い顔。
「お前さんに頼みがある。たった一人の友人のお前さんに」老人は一呼吸置いてから続けた。「おれがこの世から消えた後、孫娘と仲良くしてやってくれないか? いやしかし、あの子にはお前さんの姿は見えないかもしれないな……だったらせめて、遠くから見守って、時々ちょっと助けてやってくれるだけでも構わない。なあ、頼めないか?」
二つの光がほんの一瞬だけ消えた。老人は安堵したように小さく息を吐き、微笑んだ。
「礼を言うよ」
雲が風に流され、隠されていた満月が露わになり、ぼんやりとした淡い光を放つ。
「お前さんと過ごした時間は、なかなか楽しかったよ。世話になったな。そんでもって今度は孫娘が世話になる。改めて、よろしく頼む」
老人が小さく手を挙げると、二つの光はゆっくりと窓の方へと移動し、やがて完全に消えた。老人は満足そうな表情を浮かべながら再び床に就いた。
老人が息を引き取ったのは、それから数日後の事だった。
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