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2・春
「キャリーケースは荷物になるから」
そう言って野崎葵は手頃なショルダーバッグを掴むと、ぼすん、と財布を投げ込んだ。必要最低限でいい。葵は幼い頃から淡白な性格であったが、ここ数年は拍車をかけてこの調子である。
「そういうのミニマリストっていうのよね」
そう言っていたずらな笑顔で茶化したのは母の晴香だ。
「ひとり暮らしが始まるってのにお財布しか持って行かない人がいるもんですか」
「ママ、心配しすぎだよ。向こうに家具も付いてるんだし、他の荷物は明日着で送ってあるでしょ。スマホと財布とハンカチがあれば充分!」
葵は薄ピンク色のパーカーとデニム生地のショートパンツに着替え玄関へ向かった。
「もうそろそろ?」
晴香は名残惜しそうに、しかし背中を向けたまま口を開いた。
「いつでも帰ってきていいのよ。ママと楓だけになっちゃって、静かすぎちゃうから」
背中しか見えなくとも、仏壇に目線をやったのは葵にも分かった。仏壇では幼い女の子が両手を上げて笑っている。まだ2歳だった。妹の楓は事故によってこの世を去った。葵自身幼かったために正直記憶はほとんどなかったが、母の晴香がそれを乗り越え懸命に女手ひとつで自分を育て上げてくれた事へは今も頭が上がらない。
「また着いたらさ、ちゃんと電話するよ」
巣立つ娘に晴香は何か言おうとして、そうして、飲み込んだ。
「行ってらっしゃい」
またいつものようにいたずなら笑顔で笑う母に手を振り、葵は歩き出した。
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