3・好機

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3・好機

 またとない機会とはあるいはこういう事なのだろうと思った。心の奥底から込み上げてくるこの熱を、歓喜を、分かち合うため今ならば、道行く誰とでもハグできる気分だ!  長谷川範久は郊外都市の小さな会社のサラリーマンである。大学を出てから12年、勤続してきて初めての大きなチャンスに恵まれたのであった。  「今日の俺はツイてるな」 長谷川はくたびれたビジネスバッグを高く上げ、ぐいん、と心地良い背伸びをした。  「お兄さん、お困りかい?」  「ひぃ!」 長谷川は小さく悲鳴をあげた。 気の緩んだところに不意にかけられた声だ、無理もない。  「あの、何ですか?」 突然訳の分からない問いをぶつけられ、さてこんなにも不審な人間とは関わりたくもない長谷川は、怪訝な表情を浮かべ後退りをした。  「おっと失礼、僕は怪しい者ではありません」 にこにこと笑う青年は続けた。  「いえね、お兄さん、事務所の前にずっと居たものだから。てっきりの類かと思ったのです」  「事務所…?困りごと…?」  「えぇ、ここは僕の事務所でしてね」 そういって目線の先を見ると、いかにも、という字面が掲げてあった。  「不幸・不運…相談事務所…?」 長谷川はあまりの胡散臭さに顔をしかめた。長く関わってはいけない。直感で、いや、いかに鈍感な人間でもそう思うのが当然だろう。佇む青年は未だ、にこにこと営業スマイルを崩さない。これはヤリ手だ…。長谷川はやっと口を開く。  「ああ、すまなかったね。困りごと?いやぁ、今の俺には全くの無縁でして…はは。では、失礼」 そう言って急足で駅へと向かった。追いかけては来ない。ふぅとひと息吐き、改札に入るのであった。    「おや、せっかく事務所に導かれた好機(チャンス)でしたのに。まぁ良いです、いずれまた…どこかでお会いするでしょう」 不敵な笑みの青年は1人呟くのであった。
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