20人が本棚に入れています
本棚に追加
/75ページ
3・好機
またとない機会とはあるいはこういう事なのだろうと思った。心の奥底から込み上げてくるこの熱を、歓喜を、分かち合うため今ならば、道行く誰とでもハグできる気分だ!
長谷川範久は郊外都市の小さな会社のサラリーマンである。大学を出てから12年、勤続してきて初めての大きなチャンスに恵まれたのであった。
「今日の俺はツイてるな」
長谷川はくたびれたビジネスバッグを高く上げ、ぐいん、と心地良い背伸びをした。
「お兄さん、お困りかい?」
「ひぃ!」
長谷川は小さく悲鳴をあげた。
気の緩んだところに不意にかけられた声だ、無理もない。
「あの、何ですか?」
突然訳の分からない問いをぶつけられ、さてこんなにも不審な人間とは関わりたくもない長谷川は、怪訝な表情を浮かべ後退りをした。
「おっと失礼、僕は怪しい者ではありません」
にこにこと笑う青年は続けた。
「いえね、お兄さん、事務所の前にずっと居たものだから。てっきり困りごとの類かと思ったのです」
「事務所…?困りごと…?」
「えぇ、ここは僕の事務所でしてね」
そういって目線の先を見ると、いかにも、という字面が掲げてあった。
「不幸・不運…相談事務所…?」
長谷川はあまりの胡散臭さに顔をしかめた。長く関わってはいけない。直感で、いや、いかに鈍感な人間でもそう思うのが当然だろう。佇む青年は未だ、にこにこと営業スマイルを崩さない。これはヤリ手だ…。長谷川はやっと口を開く。
「ああ、すまなかったね。困りごと?いやぁ、今の俺には全くの無縁でして…はは。では、失礼」
そう言って急足で駅へと向かった。追いかけては来ない。ふぅとひと息吐き、改札に入るのであった。
「おや、せっかく事務所に導かれた好機でしたのに。まぁ良いです、いずれまた…どこかでお会いするでしょう」
不敵な笑みの青年は1人呟くのであった。
最初のコメントを投稿しよう!