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長谷川範久は小さなバーに居た。滴る結露でコースターはグラスの底にくっついていた。どれくらいの時間が経っただろうか。いや、あるいはほんの数十分だったか。マスターの趣味か、トニックの香りが嫌に強い酒をグッと飲み干した。
「メンツ、ねぇ…」
ひと言零すと、マスターと視線が絡む。グラスを少し上げ催促をした。
「まだ飲むのかい」
マスターは心配そうに長谷川を覗き込む。
「今日は嫌なことがあってね。いや、良すぎたのかもなぁ。それがオジャンになるってのは…うん、今の気持ちはそうだな、絶望に似てるな」
酔っているのは分かっていた。支離滅裂な言葉を適当に吐き捨てる。マスターは放り出された言の葉を拾うわけでもなく、そっとグラスを差し出した。
「これは?」
飲み慣れない酒に長谷川は顔を上げる。同時にツンとフルーティな香りが鼻先を刺激した。
「我が道を進め、と私からの応援だよ」
マスターはグラスを磨きながら微笑む。
「バーボンと角砂糖、スライスしたレモンやオレンジ、砂糖漬けにしたチェリーなんかを入れるんですよね。あぁ、もちろん炭酸も」
突然隣から言葉をかけられ長谷川は驚き振り向く。
「君は……!」
「さっきぶりですね、こんばんは」
そう言って微笑むのは、昼間駅前で声を掛けてきた胡散臭い青年だった。
「そう、アメリカンウイスキーに拘ってつくるんだよ。それから順番はとても重要だね。アロマチックビターズもお忘れなく」
「さぁ、好みに潰して飲んでくれ」
優しい笑みの奥で感じさせるプロの意志を持ったマスターの声が、角砂糖のように優しく溶け込む。
「どうして君がここにいるんだ?」
長谷川は言われた通り、マドラーで果実を潰しながら、そして心底鬱陶しそうに尋ねる。
「さぁ。それは長谷川さん、貴方自身が僕を必要としていたからでは?」
煙のように本質を得ない受け応えに長谷川は苛立つ。
「あのなぁ、俺は今そんな茶番に付き合ってられる気分じゃないんだ、頼むからあっちに…」
「おい待ってくれ、今、なんて言った?」
長谷川の目が恐怖で曇った。
「ですから、貴方自身が僕を…」
「違う、その前だ。君、俺の名前をどうして知っている?」
青年はまたしても、ただ妖しく微笑むのであった。
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