世界中、どこにいたって

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…自分にとって大切な人、と意識しただけで、日を追うごとに慧への想いが深くなっていくのは、どうしてだろう。 無事を確認したいから、帰宅したら連絡して、と言われていたので、その夜、メッセージを送ったら、すぐに返事が来た。 向こうはもう、真夜中だというのに起きていたらしい。 “明日昼間寝られるから、大丈夫~”と返ってきたけど、その時はそれまでにしておいて、次の日、改めて電話した。 スマホのカメラを起動して、お互いに顔を見ながら話ができるから、日本にいるのと変らない。 まだ向こうにいる頃は、単なる知り合い? 友人?のような間柄だったから、突っ込んだ話はしなかったけど、お互いに恋人と意識している今は、結構プライベートなことも話すようになっている。 だから、彼の仕事の内容を詳しく聞いたり、杏里の今の状況も、隠すことなく話したりするようになった。 今日は引っ越しに備えて、服や生活用品を整理していたら、彼から電話が来た。 話しているうちに彼が、“良いこと思いついた”と言い、パソコンの横にタブレットを据えて、“そのまま続けていいよ。僕も仕事するから”と、回線を繋いだまま、それぞれやることをやっていたのだ。 スマートスピーカーから音楽を流して片付けをしていたから、“杏里の部屋から、ちょうどいいBGMが聞こえる。こうしていると一緒の部屋にいるみたいだ”と嬉しそうに言っていた。 そうやって素直に喜びを表現できる彼のことを、今の杏里はとても好ましく思う。 出会った最初の頃は、自分と違って、恵まれた環境で育った人なんだろうな、と穿(うが)った見方をしていたけど、そういう環境であっても、そうできる人とできない人がいる、ということが、ひとりに戻って冷静になれた今なら分かる。 彼はきっと、厳しい環境の中にあっても、自分に訪れるさまざまな出来事を前向きに捉えようとする人だ。 こうあるべきにとらわれず、嬉しいこと、良いことは素直に受け入れるし、マイナスなことやそういう行動をする人は、きっと何か理由(わけ)があると考え、見守ろうとする。 だから、彼の近くにいると、その日だまりのような穏やかさに触れて、自分も素直になれてしまうような気がする。 …「ここにいるありのままの僕の、背景に何があっても、それは僕の一部だと思うけど。  向き合ってるお互いが、お互いのことを大事にしたい、と思えるなら、それで良いんじゃない?」 「僕の恋人になって」という彼の言葉を、素直に受け止めることができず、勝手な言い訳をつけて逃げていた杏里は、そう言われてハッとした。 母ひとり親の家庭に育ち、自分のことは自分でやるのが当たり前だったから、知らず知らずのうちに、恵まれた環境で育った人に対して、厳しい目を向けがちなのだ、と気づかされた。 「人は、どんな環境で生きたいかを、自分で選んで生まれてくる」というのは母の持論だけど、そうであれば、彼の環境はやはり、彼の一部に過ぎない。 それを活かすも活かさないも、本人次第なのだ。 それに、恋をひとつ終わらせたばかりだったから、恋愛に対して前向きに考えることができず、彼を好きにならないように、最初から予防線を張っていた。 …そんな自分だったのに。 日本に帰国して、お気に入りのテイクアウトのお店で、パリッとした海苔が巻かれたおにぎりとおでんを買った時も、慧に食べさせてあげたいな、と思った。 「ときどき、炊きたての白米や刺身が食べたくなる」と言っていたから。 通りすがりのショーウインドウに、女性物だけどちょっと格好のいいシャツがディスプレイされているのを見て、これは慧が好きかも、と思ったりした。 今日も服の整理をしながら、ときどき画面に近寄ってみると、熱心にパソコン画面を見ている彼の横顔が見えた。 一見童顔だけど、キリッとした濃い眉の下の目が、真剣な表情で文字を追っている。 杏里が見ているのに気づくと、ニコッと笑って見せる。そうやって、2時間ほどやっていただろうか。 前日、お互いなかなか電話を切ることができなくて、「これからは、その気になればいつでも話せるんだから、いつまでもこうやっていないで、切ろう」と話し合っていたから、今夜はあっさりと切ることができた。
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