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実は、早く引っ越したいのには訳がある。
旅先から帰ってポストを開けたら、郵便物やDMの間に、一枚のメモが挟まっていた。
B5くらい、ビジネス用の手帳の後についているようなメモページを切り取ったものが、半分に折りたたまれている。
『杏里、どこにいる?
帰ってきたら連絡してほしい。
いつまでも待ってる』
末尾には、『律紀』と名前が書かれていた。
仕事を辞めて、もうすぐひと月になろうとしていた。
理不尽な上司に逆らって、異動させられそうになり退職したのだけど、その時に3ヵ月ほど付き合っていた律紀にも別れを告げていた。
理由はちゃんと説明したつもりだったのだけど、まだ納得してくれていないようだ。
彼と付き合い始めたのは、何となくタイミングが合ったから、というイメージだった。
お互いフリーで、年齢も彼が一つ上で。
同じ部署だったから、仕事を通じて彼のことはある程度分かっているつもりだった。
それに、仕事をしている彼は格好良かった。
あらかじめ必要なことをそつなくこなし、周りに気遣いができる人。
会社からも安心して仕事を任せられる、中堅どころの社員として信頼されていた。
部署の飲み会でいつも話をしているうちに、この人なら、という気持ちになっていたのを、彼も感じたらしい。
30歳を過ぎて、恋だの愛だの、ということだけでは結婚できないんだろうな、と気づいていた。
結婚に憧れていた訳ではないけど、何となく、そういうことのない人生は、ちょっと淋しいような気がしていた。
反対に、ある程度相手のことを受け入れられれば、長く付き合っていけるような感じもしていた。
その過程の中に、結婚や出産があればいい、くらいに思っていた。
女手一つで育ててくれた母は、「取りあえず、安定した仕事を持っている人にした方がいい」と言っていた。
そういう意味でも、彼は問題がなかった。
ただ、付き合っているうちに彼は、自分の考えを極力曲げない人だ、と気づいた。
杏里が自分と違う考えを持っていても、「それはこういうことだろう、だからこっちの方が正しい」というようなことをいつも言ってくる。
その度、何となく自分を否定されているような気になって、少し落ち込んだりすることもあった。
結果として、退職の理由になった件が、杏里に別れの選択をさせた。
彼が杏里の側に立って考えてくれなかったことが、「もうこの人とは一緒にはいられない」という気持ちを持たせたのだ。
こうして離れてみると、自分がかなり無理をして、彼に合わせていたことに気づいた。
付き合っている人がいる、という安心感を手放したくなくて、自分に「彼が好き」という暗示をかけていたようなものだ。
今は、付き合いが長くならないうちに縁が切れて良かった、とちょっとホッとしている自分がいる。
だから、律紀にはもう会いたくなかった。
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