とっておきの夜

3/3
前へ
/69ページ
次へ
突然の話で、何と返事をしたらいいのか分からない。 「それに、両親や兄さんの家族を見ていて思ったんだけど、夫婦や家族って、ある程度一緒にいる時間が必要なんだなって。  そういう期間にいろんなことをふたりでやってみて、共通の思い出や、お互いをもっと理解する時間をつくるべきだろうってね。  そんな時間があってこそ、離れていても大丈夫って思えるんだ、と気づいたんだ。  だから僕が杏里に言ったことは、すごく傲慢だったなって。  そう思ったら、なんか自分が不甲斐なく思えて。せっかく杏里が僕を選んでくれたのに…」 「…今、通訳とかで海外に行ってる仕事を辞めるってこと?」 「そうだね、取りあえずは日本に落ち着こうと思う。合間にやってる翻訳とかライティングなら、ある程度は続けていけるかなって思ってるけど」 「それでいいの?」 「今は、杏里と一緒に住むっていうのが僕の一番の望み。休みの日が合わなくても、家に帰れば杏里がいるっていう環境を早く作りたい。  あ、これって僕が勝手に考えているだけなんだけど、杏里もそのうちに一緒に住んでくれるよね?」 「…今の家は借り住まいのつもりだから、何とでもなるけど」 なんか、慧にばかり負担がかかってしまいそうで、素直に喜べない。 複雑な表情になっているだろうな、とは思うけど、どう言って良いのか分からなかった。 …もっと気軽に会えるようになりたいって、思っていたはずなのに。 「一緒にいられるようにするにはどうすればいいのか考えたとき、杏里は仕事始まったばかりだから、僕がこっちに来る方が良いと思った。  で、就職するならやっぱり、馴染みがあるホテル業かなって。  多言語スタッフとか、一応求人探したりしてるんだけど、別にフロントマンでもウエイターでもいいんだ。僕にとってはこっちに落ち着いて住む、ということが大事だから」 慧がそう思ってくれるのは嬉しい、私だってもっと一緒にいたい。 だけど…。 「…その話は、もうちょっと考えてみない?  慧にいろんなことを変えさせてまで、今、それを進めるタイミングかどうか、考えてみたい」 「そうなの? 分かった。とりあえず食べよ?」 テーブルには小さめにカットされたガトーショコラと苺のムース、クリームブリュレのお皿と、コーヒーがそれぞれの前に置かれ、ゆらりと良い香りを漂わせている。 杏里はとりあえず、コーヒーを口にする。 食事をしながら飲んだワインを、少し冷ますような気持ちで…。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

283人が本棚に入れています
本棚に追加