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新しい朝に
翌朝、ゆっくりと目覚めた二人は、朝食会場へと向かった。
大きく窓の取られたレストランは、少し遅い時間にしたのもあって空いていた。
ビュッフェスタイルで、好きな物を取り、窓に近い席に向かい合って座る。
「今日は、慌てて出なくてもいいって言ってたよね?」
「うん、帰りの新幹線は夕方だから。
それまでは杏里に合わせられるよ。どこか行きたいところはある?」
杏里は、夕べから考えていたことを口にする。
「…あのね、慧。指輪を見に行かない?」
お皿の上で、オムレツを切っていた慧の手が止った。
「これも気に入ってるんだけどね」と、慧がプレゼントしてくれた手作りの革の指輪を触る。
「いつのタイミングからそれを着けるかは考えるとして、気に入ったものがなかったら、また次に会えるときも探さなきゃでしょ?」
慧はナイフとフォークを持ったまま、笑顔になった。
「そうしよう。指輪、いいね。
僕、そっちのこと何も考えてなかった。式とか披露宴とか、杏里は希望ある?」
「あのね、派手な結婚式とかはいらないの。
でも両方のご両親には会ってもらいたいから、ホテルで小さいパーティーとかがいいな。それと、ドレスの写真は撮りたいの。家族写真もね」
昨日、ホテルのガイドブックを見ていたとき、上の階にチャペルがあって、挙式もできることを知った。
ここで式を挙げたいと思った訳ではないけど、慧が何となく、いろんなことに焦ってるような気がして、そっちの方から進めるのもありかなと考えたんだ。
「父さんのいるホテルにも、チャペルがあるよ。杏里が嫌じゃなかったらだけど…」
「え、ホント? あのクラシカルなホテルでもできるの? そうしようよ。
あ、慧は恥ずかしかったりする?」
「まあ、クルーはみんな知り合いだから恥ずかしさはあるけど。
でもね、チャペルは落ち着いた良い雰囲気だし、写真撮影もできるよ。少人数プランもあるし」
「素敵…。決まりね。
それでね、慧の誕生日は5月でしょ? そういう日を目標に、これからのことを決めていくのはどうかな?」
慧はもうすっかり手を止めてしまい、考え込んでいる。
「…もしかして、私だけ、勝手に盛り上がってる?」
恐る恐る聞いてみると、慧は笑顔になって首を横に振った。
「そんなふうに考えたら、何か目の前が拓けてきたような気がする。
…ありがとう、杏里」
お互いに顔を見合わせて、ふふふっと笑うと、また食事に戻った。
「そうだよね、何となく、一緒に住まないと何も始まらないような気がしてたけど、お互いが良いんなら、どんな順番でもいいんだよね。気持ちが大切だから…」
軽く焼いたフランスパンにバターを塗りながら、慧が言う。
「なんか、こうしたいというイメージが先にあって、そこに向かって二人で進んでいけるって良いかも。
仕事のこと、もう少し考えてみる。住むところのことも」
やっと落ち着いた感じの慧を見ながら、一通り食べ終わると「コーヒーもらってくるね、慧の分も」と席を立った。
…良かった。慧を止めることができて。
彼は本当に、自分の仕事をばっさり切って、ちゃんと就職するつもりでいたらしい。こっちのホテルの求人票まで見ていたようだし…。
「杏里の誕生日は1月の末だったよね」
コーヒーカップを二つ持って、テーブルに戻ると慧がそう聞いてくる。
「そうだよ。30日」
「その頃、こっちに来れる? 誕生日のお祝いをして、式場の下見をしようか」
「ホント? 嬉しい。2泊くらいできるように休み取るよ。ありがとう」
これから慧は、お父さんのホテルでのアルバイトを、年明けまでずっと入れている、と話していた。
きっとその頃になれば、ひと息つけるようになるのだろう。
「…僕の相手が、杏里で良かった」
慧がそう言って、コーヒーカップを持ち上げるから、杏里も自分のカップを持ち上げて、コツンとあてた。
「二人のことは、二人で決める。約束ね」
そう言って、杏里は笑った。
窓の外に目をやると、地平線までずっと、ビルと建物がぎっしり続いている。
それでも、15階のこの場所は、冬の陽射しが差し込んでいて暖かい。
慧も同じように、窓の外を見ながらコーヒーを飲んでいる。
いつもは離れているけど、また今夜離れてしまうけど、昨日までも、明日からも、こんな毎日が続くような気がする。
この先も、こんな小さな幸せをいくつも感じていきたい、と杏里は思った。
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