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「…良い夜になったね」
ホテルに戻り、それぞれでシャワーを浴びると、ベッドの端に座って慧にそう言った。
「杏里がそう言ってくれるなら僕も嬉しい。良かった」
ご実家からホテルに戻ることになった慧が、何だかおかしくて擽ったかったけど、ご両親は茶化すことなく送り出してくれた。
「これから長い付き合いになるんだから、気楽にね」と言われ、引っ越してきたら杏里だけでもおいで、と言われた。
慧のお母さんは、造花というにはもったいないくらい素敵な、アーティフィシャルフラワーを作ってクラフトサイトで販売している。
最近、作品がサイト内でピックアップされ、注文が増えているそうだ。
「発送とか手伝いに来てくれると嬉しいわ」と言われたのだけど、そういう理由があった方が行きやすいかなと思う。
「…まさか同居を勧められるとは思ってなかったよ。ごめんね」
慧はそんなふうに言うけど、杏里はずっと思っていたことを口にする。
「あのね、私、考えていることがあるんだ」
なあに?という顔で隣に座った慧が身体を斜めに向ける。
「…これからこっちに引っ越して、式をして、一緒に住んだら、私と慧のところに赤ちゃんが来てくれるかもしれないよね」
慧は少し驚いた顔をする。あんまり考えたことなかったのかな…?
「そうなったら、慧のご実家の近くっていうのは、すごく安心できる気がするの。
実家の母はすぐ来てもらえないし、私たちはまだ子育て未経験だし…。
だから、ご実家を頼ることになるかもしれないよ。できれば良い関係を築きたいの」
杏里の膝に置いていた手を、慧の両手が包み込む。
「そうだよね。僕たち、夫婦になるんだもんね」
「…慧は今、どんな気持ち?」
彼は少し考えてから、言葉を紡いだ。
「ちょっと緊張してるかな。
これまでは、自分が良ければそれで良かったけど、これからは杏里を悲しませるようなことがないようにしないと、と思ってる」
「そうだよね、ありがと。
…私にとって、身内と言えば母と祖母くらいで、親戚もあまり付き合いがなかったから、慧のご両親とうまくやっていけるかなって思うこともあった。
でも、こうやって温かく迎え入れてくれて、本当に感謝してる。
慧と、お父さんお母さんとも、これからすれ違ったりぶつかることもあるかもしれないけど、頼ったり頼られたりして、家族になっていきたいな」
慧はうん、と頷いて、杏里の頬にちゅっとキスをした。
「今回は、杏里がこっちに来てくれることになったけど、考えてみれば僕たち、離れて暮らしながら、結婚式だけすることになったかもしれないよね。
それでも、一緒になりたいって思ってくれた杏里に、すごく感謝してる。
僕も、杏里と一緒になることに、何の迷いもなかった。
こういう気持ちが揺るがないってことは、やっぱり杏里が僕の運命の人だったのかな、と思ってるよ」
そう言って、慧はふふふっと笑うから「ありがとう」とキスを返した。
「…私には父がいなくて、これまでは自分が子どもを持つっていうイメージが全くなかったの。
でも慧と夫婦になるのなら、赤ちゃんが来てくれてもいいなって思う。
きっと慧は大事にしてくれるだろうから」
「うん、僕、基本的に子ども好きだよ。甥や姪にもすごく懐かれてるしね」
「前の仕事は本当にやりがいがあったから、単純に子どもを持つより仕事をしていたかった。
でも母がね、子どもを育てる経験を、私にもして欲しいって言ってくれたことがあったのね。
子育ては大変な事も一杯あるけど、でも、私が生まれて来てくれて、本当に良かったって。その話が、心の中に残っていて。
だから、仕事を辞めて引っ越して、慧と暮そうって思ったとき、子どもを授かれるなら今が良いタイミングかも、と思ったの」
「そうだね。女の人にとって重大な役割だもんね」
「こっちに落ち着いたら、しばらくはできる仕事をしながら、そうなればいいな。
まずは慧と一緒に住むこと、時々、お母さんのところへ行って、手伝いをして、お義姉さんの仕事も手伝える?」
「それは大丈夫、きっと喜んでくれると思うよ」
杏里はベッドの上掛けを引っ張って剥がすと、慧の手を引いた。
「だから今は、恋人の時間を楽しむの、ね…?」
慧はちゃんと飲み込んで、杏里に覆い被さるとキスで唇を塞いだ。
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