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一年半後
「おはようございま~す」
マザーズバッグを手にした慧が、実家マンションのドアを開ける。
「おはようございます」
生後8ヶ月になる娘の陽花を抱いて、杏里がその後に続く。
「おはよう、陽ちゃん、おいで」
お母さんが手を伸ばし、陽花を抱き取ってくれる。
「また夕方までお世話になります」
杏里がそう言うと、「待ってたわよ。手伝ってもらいたいことがあるの」とお母さんが笑顔で返してきた。
「またまた、あんまり杏里をこき使わないでよ~?」
「はいはい、慧はもう行って」
そう言われて慧は、陽花の手を握り「行ってくるね」と言うと出て行った。
* * *
結婚式のあと、杏里はしばらく、慧のお父さんが支配人をしているあのホテルで働いていた。
慧に「ホテルのスタッフは募集していないの? あんな職場で働きたい」と言ったのだ。
そうしたら、「朝食スタッフなら、いつも人手不足だから募集してる」とのこと。
宿泊客の朝食時間に、料理の配膳や片付けをするパートのスタッフだという。
人が少ない理由は、朝の5時半から11時半までの勤務だからだ。
「こっちでまた仕事を探すことを考えると、すぐに働けるのは魅力だな。
私は働いてみたいけど、慧はどう思う?」
そう聞くと慧は、「じゃあ、僕もホテルに行く日は、その時間帯のスタッフに入ればいいんだ」と言い、先方と相談してくれた。
それで、二人の生活時間をその勤務に合わせた。
夜は早めに寝て、朝は5時頃家を出る。
そのサイクルに慣れてしまうと、「何とでもなるもんだね」と笑い合った。
結婚前、あんなに再就職に迷ったのに、その時は「どんな仕事でもいい。あの素敵なホテルで働きたい」という気持ちが強かった。
夏の暑さが本格的になった頃、杏里の妊娠が分かった。
悪阻もあって、数ヶ月勤めたホテルは辞めることになったのだけど、その頃には慧が、正式にホテルのスタッフとなった。
もう海外に行くことはほとんどない。
出産の後、一週間ほど実家の母が来て、マンションで世話をしてくれた。
その後は、自宅マンションと慧の実家を行ったり来たりして過ごしている。
慧のお義姉さんが通販で扱う商品を置くのに、「どこかアパートでも借りて倉庫兼事務所にする」という話になっていたのだけど、「部屋が空いてるから」と慧の実家の一部屋を使うことになった。
その通販の注文管理や商品の発送が、杏里の仕事になった。
結局、お母さんの作品の発送も一緒に受けたりして、それなりに忙しい時間を過ごしている。
今では、週の半分以上を慧のご実家で過ごす。
お母さんは孫が来るのを楽しみにしていて、杏里が仕事をしている時間、子守を引き受けてくれている。
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