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世界中、どこにいたって
“杏里、休憩するからこっちに来て~”
リビングのテーブルに置いてあるノートパソコンの、スピーカー部分から声がする。
クローゼットから洋服を引っ張り出して、仕分けをしていた杏里は、手を休めてパソコンに近寄って行く。
“飲み物取ってくるから、ちょっと待ってて”
慧が笑顔でそう言って画面から外れると、キーボードの端っこと、横に積んであるらしい辞書や紙の束が見えた。
パソコンの横に、立てたタブレットを並べて、画面越しに杏里の様子を見ながら仕事をしていたのだ。
杏里は椅子に座ると、横に置いてあったグラスにガラスポットからミントティーを注いで、彼が戻ってくるのを待つ。
“お待たせ。時計見たらもう11時じゃん。あ、でもそっちは9時くらい?”
「そうだよ。今日は昼間もやってたから、大分片付いたけどね」
“そんなに慌てて引っ越さないとダメ? 引っ越し先は決まったの?”
「まだだけど、マンション出るときは、ひと月前に申し出ることになってるから」
“そっか。僕もやってみたかったな、ひとり暮らし”
「でも慧は、ホテル移動も多いから、ひとり暮らしと似たようなものじゃない?」
“まあね。でも、食事作ったり、掃除したりとかしなくていいから。
ふわりふわりと飛び回って、地に足が着いていないように感じたり、それだけあちこちから求められているんだな、と思えたり”
「そうなんだね。それも考え方次第なのかな。
ひとりは自由で気楽だけど、時々、人恋しくなるし、孤独を感じることもあるよ」
“そうだよねぇ。なんか想像つくよ”
慧は画面の向こうで、レモンソーダの瓶に口を付けている。
杏里がそっちに行っていたときは、同じメーカーのグレープフルーツ飲料が気に入ってよく飲んでいた。
…また、あの国に行きたいな。慧と一緒に。
彼と出会ったホテルの、ベランダから見えた景色を思い出す。
慧はまだ、そのホテルにいるのだ。
「ねえ、今はどんな仕事してるの?」
“日本の病院の先生たちが、学会で発表する文章を校正してるの。
言葉の言い回しを直したり、この場合はこっちの単語の方が合ってるな、というようなところ? 専門用語も多いから、辞書が手放せなくて”
「そうなんだ。難しそうだね」
“でも内容も、結構勉強になるんだ。学会資料に目を通しているのと同じことだからね”
「そうか。そうなるよね。
慧の話を聞いていると、世の中ってまだまだ自分の知らない仕事があるんだなって思うよ」
“仕事探しはどう?”
「まだはっきり決めてないの。でも、明日、知り合いに会いに行くから、方向性が見えるかもしれない」
“そうなんだ。何となくでも見えてくるといいね”
「そうだね。あまり長い時間、無職なのもね」
“まあ、決まらなければ、僕が養ってあげるよ、っていうのは、杏里は嫌だよね”
そう言って、慧は画面越しに笑う。
「うん、やっぱり自分ひとりの生活くらいは、自分で何とでもしていくよ。
選ばなければアルバイトでも何でもあるし。そうやって働くことに抵抗はないから」
“杏里のそういうところ、好きだよ”
そう言って、慧は画面越しに正面から見つめてくる。
一瞬、ドキッとしたけど、彼の口元が少し緩んでるのが見えた。
「ちょっと! からかってるでしょ」
“バレた? 恋愛ドラマ風に言ってみたんだけど”
そういって慧は笑ってる。
“今度は、目の前で手を握りながら言ってみよう”
そんな勝手なことを言いながら、彼は炭酸飲料を飲み終わる。
“僕はもう、シャワーして寝るよ。杏里は?”
「私も、お風呂に入って寝るよ。また明日ね」
“うん、また明日。おやすみ~♡”
双方で手を振って、画面を閉じた。
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