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隆聖 ③
「深海、何か良いことでもあったのか?」
パソコンで資料を作るのに悪戦苦闘して、眉間に皺を寄せていたら、隣の席の先輩に声をかけられた。
どう考えても今は良い顔じゃないだろうとツッコミたかったが、溢れ出す気持ちが口元を緩ませた。
「ふっふっふ、分かります?」
「分かるってー! 顔色良いしツヤツヤってやつ? 女だろう、大学で別れたきりって言ってたけど女が出来たなーー!」
肌のツヤツヤ感は単純に良いものを食べているからだと思うが、仕事中も顔がニヤけてしまうのが止められない。
今もあの人が微笑む横顔を思い出して胸が熱くなってしまった。
「こいつーー、隣で幸せオーラを振り撒くなよ。こっちは半年前に離婚した悲しき二回目の独身男なんだから」
バツイチになった先輩の横であまりニヤけるのは悪いかと思いながら、自然と緩んでしまう口元を隠した。
「こいつの元嫁出て行っちゃって、もう新しい女がいるんだって」
他の先輩が話に入ってきて、なかなかキツめのパンチを放ってきたが、二人はいつもの調子らしく、うるせーと言って笑い合っていた。
ただ、その言葉に引っかかるものがあって、俺は口を開いた。
「…あの…例えば、奥さんを待とうっていう選択肢はなかったんですか?」
「はあ? 帰って来るかも分からないのに? ムリムリそんなの自分で首絞めてるようなモンじゃねーか」
「そうそう、そりゃもう愛情って言うより、執着だよ」
先輩の一言で、ニヤけていた心に冷たい水をかけられたような気分だった。
分かっている。
あの人の心には入り込む隙など一切なかった。
執着と呼べるような強い愛情。
孤独に身を震わせながら、あの人はそれにしがみついて必死に耐えているように見えた。
「都会ほど都会すぎない町、俺が育ったのはそんなところだ。平凡な家庭だったよ。公務員で真面目な両親と、お喋りで可愛い妹。今とは大違いだが、子供頃は明るくて活発な少年だった。みんなを笑わせることが好きで将来の夢はお笑い芸人、ははっ俺がそんなことを…笑えるだろう?」
「いいじゃないですか。みんなを笑わせたいなんて素敵な夢ですよ」
先週の日曜日、日置の家に遊びに行って、日置の話を聞くことができた。
最初はつまらないからと嫌がっていたが、話し始めたら色々なことを聞かせてくれた。
「中学の時、自分の性的指向に気づいた。女子に興味が持てなくて、目で追ってしまうのはいつも男だった。思えばその辺からおかしくなっていたのかもな。高校に入って同じ小学校に通っていた道彦と再会した。その頃、仲良かった友人と喧嘩して俺がホモだって言われた。仕草がホモっぽいって…、そこからは波が引くように周りの人間が消えてしまった。一緒にいてくれたのは、道彦だけだった」
思春期の心と体の成長、異性との関係。
誰もが悩んで大人になるためのドアを叩く時期。
同じように悩んでいた日置は、友人との喧嘩で大きく躓いてしまった。
立ち直るきっかけになった男が例の恋人だった。そして今、日置はその恋人への捨てられない想いに苦しめられている。
悲しくて悔しい気持ちになった。
「大学の頃、親には女性を愛せないって話をして、それから家族とは微妙な関係になってしまった。その代わり、叔父が俺と同じ指向の人間でさ、よく相談を聞いてくれた。この会社も叔父が役員をやっているから、どうだって勧めてくれて……、俺は恵まれているよ」
黙ってしまった俺に、ほらつまんなかっただろうと言って日置は笑ってきた。
「いえ、日置さんのことが聞けて嬉しかったです」
「本当か?」
「できれば、好きな音楽から好きなパンツの色まで教えて欲しいくらいです」
俺の冗談とも本気とも言えない発言に、日置は目を大きく開いた後、ぶっと吹き出して腹を抱えて笑ってくれた。
その場面を何度も思い出して、その度に声を上げて悶えてしまう。
警戒心たっぷりで、なかなか心を開いてくれなかった。
寂しそうだというところに付け込んで、毎週会いに行ってはただ一緒に飯を食った。
ようやく笑顔を見せてくれるようになった。
そのことが心の底から嬉しい。
もう分かっている。
先輩、女じゃないですよ。
俺、好きな人ができたんです。
心の中でそう呟いた。
ふわっと柔らかい温かさに包まれて、俺はゆっくり目を開けた。
「んっんんーー……」
まさか抱きしめてくれたのではと期待してしまったが、俺の上には分厚い毛布がかけられていた。
「起きたのか? 食べながら寝てしまったからここまでやっと運んだんだぞ。まったく子供みたいだな」
「……え? 俺を運んでくれたんですか?」
背中に沈む感触がして、ここがソファーなのだと寝惚けた頭でぼんやり理解した。
それにしても、こんなデカい男をよくあの細腕でと驚いてしまった。
「俺だって一応男だからな……。そこから下ろすだけだったし……それに、お前が来るようになって食事量が増えて肉が付いた」
日置が腕をまくって力こぶを作る仕草をした。白くて柔らかそうな腕を目の前で披露されら、かぶりつきなくなってしまう。
涎を垂らしそうになるのを堪えた。
「立派なお肉が付きましたね。美味しそうです」
「……アホ、しばらく休んだら帰れよ。明日は仕事なんだから」
失敗したと思った。
土曜日だったら疲れたと言って泊めてもらうこともできたのに。
「日置さん…、来週は外に遊びに行きませんか? 美味い店を知ってるんですよ。一人じゃ行けなくて」
三兄弟の末っ子だった俺はこういう時の甘え方を熟知している。
耳を垂らして尻尾を振ってますという顔をして上目遣いをする。
日置はなんとも言えない顔になって目を逸らしたが、かなり効いているとみた。
しかし日置の視線が一瞬部屋を見回したのを見逃さなかった。
不安に染まった心ごと奪ってしまいたかった。
「もし、彼氏さんが帰ってきても、いなかったら連絡が来ますよ」
「そうか…、そう…だよね」
まるで同意を求めるような言葉が日置の口からこぼれ落ちた。
俺は大きく頷いて安心させるように、にっこりと笑った。
「……というか、お前友達いないのかよ」
「あーいるにはいますけど、一番一緒に行きたい人が日置さんなんです」
「物好きというか…変わったやつだな」
口では呆れたようなことを言いながら、日置は照れたように頬を染めて笑っていた。
後から抱きしめたい。
背を向けた日置は長い前髪を後ろに流して束ねていた。
手入れをしているのか分からないが、何とも色っぽいうなじだ。
あそこを舐めたら、どんな声を上げるのだろうか……。
「分かったよ。じゃあ、来週は土曜日会おう。美味い店、期待しているからな」
トランポリンに乗ったみたいに一気に心が浮上した。空まで見えそうなくらい、嬉しくて目の前の景色が鮮やかに輝いた。
しかし日置がジョウロを手に取って、日課の水やりを始めてしまったので気持ちはストンと床に落ちて転がってしまった。
「今日も花は咲かないな……」
小さく呟く声を聞いてしまって胸がツキンと痛んだ。
この人を、幸せにしたい。
俺は決意を込めながら、日置の背中を見つけ続けた。
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