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隆聖 ⑤
「ごめんなさい、ごめんなさい。俺のせいです…自分で…終わりにしますから……ごめんなさい」
先日、日置の部屋に遊びに行った際、遅くなったのでソファーを借りた。
明け方、話し声で目が覚めて、寝ぼけたまま寝室に向かうと、日置がうなされながら寝言を言っていた。
泣きながら誰かに謝っていた。
あまりに可哀想で見ていられなくて寝室に入った俺は日置の手を握った。
しばらく謝り続けていた日置だったが、手を握り大丈夫だと声をかけると、安心したようにまた眠った。
友達のままでいい。
それでも側にいたい。
そう思っていたが、明らかにこのままでいいはずがなかった。
日置はうなされるほど苦しんでいる。
一緒にいたいからと目をつぶって見過ごすようなことはできなかった。
ルールも破ったし、俺がこんなことをしたって分かったら絶縁されるだろう。
それでもいい、日置が苦しみながら生きているのが耐えられない。
過去を清算すべきだ。
日置は何かを後悔している。
終わりにするというのは、恋人との関係のことではないか。
それができなくて苦しんで謝っている。
だったら向こうから言ってやるのが、付き合った相手としてのせめてもの責任ではないだろうか。
それを言わずにキープしたまま、他の相手を巡って飽きたらまた戻る。
いくらなんでも酷すぎる。なんて酷い男なのだと怒りが収まらなかった。
日置は自分の束縛が原因だと言ったが、俺からしてみれば、不安にさせるようなことをして束縛が嫌だってなんだ。
ノンケだったのにとかそんなこと知るか!
付き合おうと決めたのだから、男とか女とか関係なく愛しぬくべきだ。
出て行った喧嘩の原因なんてどうでもいい、不誠実極まりない、最低のクズ男に鉄槌を食らわせるべく、俺は夜の街に立った。
営業先から直帰だったのでガッツリスーツだがどうでもよかった。
事前にさりげなく、日置の恋人がたまに働いているというバーの場所と名前を聞いておいた。
まだ店は開店前だろうが関係ない。
本人がいたら直接、いなければ今どこにいるか確認してやろうと意気込んでいた。
繁華街のど真ん中にその店はあった。
まだ看板に灯がついていないが、ドアを引いたらカランと鈴の音がして開いた。
「すみません、まだ開店前なのですが……」
バーのマスターらしい初老の男がグラスを磨いていて、突然入ってきたリーマンに驚いたように声をかけてきた。
「お忙しいところ失礼します! ここで働いている、鹿島道彦という男性と話がしたいのですが、今日は出勤される予定ですか?」
キュッキュッとグラスを磨いていた音が止まった。マスターはなんとも言えない複雑な目をして俺のことを見てきた。
「あの……大変申し訳ないのですが……」
「いいじゃないか、君。ちょっとここで私と一杯飲まないか?」
背の高い観葉植物で見えなかったが、カウンターに一人客がいたらしい。
常連で開店前から飲んでいるというやつだろうか……。
近づいていくとこちらも初老の紳士で、三揃いのスーツをピッシリと着こなしていた。
手元の小さなグラスにはウィスキーらしき液体、いかにもハイクラスの匂いがする。
「君のことは知っているよ。営業二課の深海君だろう」
「へっ!? ああの…あなたは……?」
「申し遅れたな。日置雅人、充の叔父で会社の役員をしている。充のことはたまに様子を見に行っていてね、君が出入りしているのが分かったから、失礼だが調べさせてもらった。……そろそろ、ここに来るんじゃないかと思っていたよ」
「どういうことですか? まったく意味が……」
「あの子は……心の病気なんだ。一人だけ、道彦君が亡くなった五年前から時間が止まっているんだ」
カランとグラスに入った氷の音が鳴った。
五年前、鹿島道彦は海外出張先のラスベガス近郊でヘリの墜落事故に遭って亡くなった。
日置の記憶にある喧嘩をして出て行った後の話だ。
予定されてた仕事に合わせて渡米。海外でのイベントに出た直後の事故だったそうだ。
当時充はショックを受けて寝込んでしまったらしい。
「追い討ちをかけるように、道彦の母親が家に息子の荷物を取りに来たんだ。その時に一悶着あったらしい」
「一悶着…ですか」
マスターが気を遣って水割りを用意してくれたので、それを口に含んだ。濃厚な酒の匂いが鼻をついて流れていった。
「その母親というのが、長年道彦と上手くいかなくて揉めていたそうなんだが、彼女もまたショックだったのだろうな。道彦が亡くなったのが充のせいだと言い出した」
「は? そんな…!」
「彼女なりに愛していたから、受け止められなかったんだろう。そこに充がごめんなさい、俺のせいですと謝ってくるから余計にヒートアップしたと聞いている。充を罵倒して責めた、部屋にあった道彦の物を全て持ち出したらしい。充がどうしてもと言ったので鉢植えだけは残したらしいがな」
あの鉢植えだ。
いつも日置が大切そうに水をあげているあの……。
「私が駆けつけた時に充は部屋に倒れていた。外傷はなかったが、そのまま病院に運んだんだよ。それから何週間も眠り続けた」
「そんなことが……」
「充は可哀想な子なんだ。親思い、妹思いの子だった。だが、家族は充を…彼の指向を受け入れることができなかった。家族とは疎遠になって、私が面倒を見ていた。意識が戻ったと連絡が来たので駆けつけると、充は記憶をなくしていた。まだ恋人が出て行った日のまま、そこで記憶が止まっていた」
叔父の雅人は病院の医師と何度も話し合いを重ねたそうだ。
脳の方は問題ない、だが、無理に現実を思い出させるのは負担が大きい。
元通りの生活を送りながら、徐々に現実を受け入れるのを待とうということになった。
頻繁に会うと混乱するからと、雅人は遠くから眺めることしかできなかったそうだ。
このバーには道彦の話を聞きに来て気に入ってしまい、それ以来常連なのだそうだ。
「充の場合、どれだけ実際の時間が経っても、道彦が出て行った後から本人の時間は変わらない。いつ出て行ったが聞いても記憶が曖昧だっただろう。自分の記憶と齟齬が出てしまった場合は曖昧な認識で考えないように自分を防御している。仕事の時は切り離して脳が働いているようだ」
医師によると強いショック受けた状態から自分を守るための防御反応のようなものらしい。
このまま続く可能性もあるし、自分から現実を理解して元に戻る可能性もある。
何にしても脳が時を進めてくれないわけなので、現実と自分が作り出した虚構を行ったり来たりというわけだ。
混乱は余計に回復を妨げるので、家にあったペアのカップや歯ブラシなどは持ち去られてしまったので、すべて同じ物を雅人が揃えたらしい。
「道彦の部屋に入ったか?」
「いえ、そこだけは開けないように言われていて……」
「きっとその扉を開けることが、充が全てを思い出す時なんじゃないかと思っている」
リビングから見える一番奥の部屋、いつも閉ざされていて暗く感じた。
それが恋人の部屋だと聞いてからは意識して見ないようにしていたくらいだ。
「正直言うと君のような人を待っていた。貝のように閉じた充の心をノックしてくれる人を……。私ではだめだった……。君と関わることで明らかに明るくなって社内での評判も変わった。それは感じていただろう?」
「……ええ、俯きがちだった顔が上がって、最近は他人にも笑顔を見せるように…、それを見て顔を赤らめる女子社員がいるなんて話も聞こえてきます……」
「いい傾向だと思っていたんだ。このままゆっくり君に慣れていけば、自分を取り戻せるかもしれない。ようやく、時間が動きそうな予感がしている。それに、ここまで来てくれたということは、君は充のことを大切に思ってくれているのだろう?」
「……もちろんです。道彦さんを殴るつもりで来ました」
俺の話を聞いていたマスターが、若いなぁと言って微笑んだ。
「確かにあの二人の付き合いは、充くんの愛情を道彦が試してばかりのものだった。あいつも壊れていてね、常にたくさんの人間から愛されていないと生きていられないやつだった。分かっていたんだよ、自分をずっと愛してくれるのは充くんだけだって。だけど認めたくなかった。認めてしまったら充くんを失ったら何もなくなってしまうから……。だから、自分で傷つけて壊して…それでも離れられなくて……」
「……そんなの、そんなのは愛じゃないです。愛はお互いを幸せにするものです。たとえ失ったとしてもずっと心の中で輝くものが愛だと思います」
マスターの言葉を遮って、ギリギリとグラスを強く握り込んで力説してしまった。
むしゃくしゃしてたまらなかった。
日置はずっと苦しんでいて、今もひとり、時を止めてまで道彦を待ち続けている。
それが愛だからなんて言葉で片付けられるのは悲しすぎた。
「やはり君なら…、充を暗闇から救い出してくれるかもしれないな……」
ブーブーっと震える音がして、雅人が胸元からスマホを取り出した。
会社からのようで、俺とマスターに断ってから電話に出た。
「ああ…すまない、ここは電波が悪くて……なに? え? 何だって!?」
一気に酔いが覚めたのか、雅人は青い顔になって椅子からガタンと降りた。
「分かった! すぐに向かうから……ああ、M病院の脳外科だ、私の名前を出してくれ!」
電話を切った雅人は一呼吸吸ってから俺の方を見てきた。
じっとりとした嫌な汗が背中を這っていくのを感じた。
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